THE CYCLONER.

2004年10月20日
全てのものは「表す」ことができるかと思った今日この頃。
例えば、「無限」に続くグラフなんてものも、
「発散する」、「収束する」、「振動する」等で表せてしまうワケで。
「円周率」でさえも、「無限に続く」と言い表せるわけで。
「二乗して-1になる数」なんてものも「i」として表されます。
そうすると「表す」ことのできないものはないのか。
なにであれど、それと同意を持った「記号」を以って「表す」ことができるのか。
「表せないものは表せない」、それが当たり前のようですがこれの答えかと。
しかし、それでさえ「表せないもの」として括り出し、「表す」ことができます。
つまり「表せないものはない」ということになります。
ただ、「表す」ってことは「本質」をつかむということとはまた違うもので、
「表し」たからといってなんだというんだってこともあるんです。
では本文。
朝起きたら自分の部屋ではありませんでした。
また、何故かたすきかけてました。
ぼうっとしながら昨日の記憶を辿ってみますと。
そういえば母に「猫背対策」としてこのたすきをかけられて、
それをつけつつそこらで寝転んでたんでしたっけ。
昨日の夜の記憶が殆ど無いです。何故か。
さて、その話はおいといて。
昨日の夜から「強風注意報」は出てたんですが、「暴風警報」ではないので学校へ。
そして三限目半ば、途中下校となりました。
まだ警報が出てないとはいえ雨風が結構強くて(汗)
寧ろ雨量はそんなになくとも風がその勢いを増進させてるといった感じで。
また、一斉下校ですからもう人がうじゃうじゃといるワケです。
そして電車に乗ったんですが、何だか蒸し暑い(汗)
まさかこの状態で暖房かけてるワケでもあるまいに。
しかし、途中で隣の車両に移ったら結構涼しくて、この差はなんだ、と。
あの車両だけ冷房が壊れてたとかいうオチでしょうか。
忍者鳥取君と一緒に帰ってたワケですが、彼は自転車で来てたらしく。
この雨だし先に帰る、ということで自転車置き場で別れまして。
ただ、その自転車置き場と帰り道の位置関係からして、自転車に乗って自分をもう一度追い抜かしてくことになるんです。
なのでその際に「バイバイ」とだけ言おうと思ってまして。
暫くして、自転車置き場から自転車が出る音がしまして。
振り向いて「バイバイ」と言ってみたのです。
…全然知らない人でした(汗)
「人違い」なんて久々です。もう何か、スイマセンって感じです。
その後にきた忍者鳥取君にその話をしたのち別れました。
自転車置き場に入ってったのが彼のみと思ったからこその勘違いですかね。
きちんと確認すればよかったものを、と。
単なる「人違い」ですしそう悔やむことではないんですが、
悔やむようなことになる前にそうして戒めておけば良いかな、と(何)
ところで、昼までに帰宅したワケですから、弁当は食べなかったワケです。
…家で弁当食べるってのも何だかなぁ(汗)
前回もそうでしたけども、本当になんだかなぁ、と。
それからはパソコンして、目が疲れてきたんで少し休んでたらいつのまにか寝ちゃってて、起きたら夜だった、と。
寝てた時間のほうが多かった気がした一日。
では。

THE COMPLEXER.

2004年10月19日
「十分条件」は誤解を招きやすいかと思った今日この頃。
「AであればB」が成り立ち「BであればA」が成り立たないのが「十分条件」。
つまり、確かにAならばBであるといえるけれども、A以外のものでもBだといえるということで。
まあ、「AであればB」だけがわかってても、果たしてBの全てがAなのかとはわからないもんで。
しかしどうも、現実では「AであればB」なら、「A以外のものはBではない」、
即ち「Bの全てはA」という誤解が多く存在するのです。
逆の過程で、「Aであるものは全てBだ」という誤解も存在します。
ただ、「命題と命題の対偶の真偽は一致する」ということからすると、
そうしてAがBに対し「十分条件」であるとき、
「BでないならばAでない」が成り立ち「AでないならばBでない」が成り立たない。
つまり、「A以外のものはBでない」ということは成り立たない。
「必要十分条件」であれば確かに「AでないものはBでない」といえるのですが。
ある事象がある事象を満たすのに「必要」なのか「十分」なのか「必要かつ十分」なのか、はたまたどちらでもないのか。
それを考えて答えを導き出したうえで、その事象について考えるべきかと。
では本文。
中間テスト最終日。嬉しいんだか哀しいんだかわかりません(何)

一時限目:地理:(滅)
殆どわかんなかったんですけども。
マークシート試験ですしどうにかなる、と。
二時限目:英?:(悪)
前半も大概ですが、後半全然わかんなかったんですが。
英文の意味が殆どとれない文章って一体何なんですかね。
それよりも「?」って「機種依存文字」ですよね、と(何)

終礼にて、もう二ヶ月後にまでせまっている「修学旅行」での、
「大体の予定」を教えてもらったんですけれども。
…結局、「完全な自由」はないんですか(汗)
最も自由だとされる「タクシープラン」も、形式が決まってるようで。
先輩の話じゃゲームセンターに行けたとのことだったんですが、一体どうしたんでしょうか。
さて、それはおいといて。
家に帰って、パソコンに向かって、適度な時間に整骨院に行って、
それからまたパソコンやって、という一日。
試験中と何ら変わりがない気がするのは気のせいです。
整骨院では相変わらず左肘に針をうたれましたけど、やっぱりこれがどう左足と関連するのかわかりません。
ところでなんかまた「台風」接近してるようですね。
しかし、以前から名前はついていたのに、今回だけ「トカゲ」という名を強調されたのは一体。
やはり面白くてウケがいいと踏んだんでしょうか。それにしてもトカゲって。
全日休日は無理でも、短縮授業くらいにはなって欲しいです。
試験休みもないんですし。
通常授業が始まると思うと少し気分が沈んだ一日。
では。

THE MEANER.

2004年10月18日
「結果」とはどこにあるかと思った今日この頃。
一つ問いを投げかけてみるのですが。
「タバコ」の販売で利益を得ることと、
それほど儲からずとも「人類にとって役に立つ物」を開発すること。
どちらのほうが「良い」と思えるか、と。
「結果こそ全て。儲かるほうが良いに決まっている。」、これはまあ、「儲ける」ということが「結果」だと思ってる人の解答でしょう。
しかし、「結果」とは果たして「儲け」なのか。
「儲け」が多ければ「良い結果」といえるのか。
自分はそれは違うと反論してみます。
極端な例を挙げたんですが、果たしてある意味「毒」といえるものを売って儲けたところでそれは「良い」といえるのか。いえません。
本当にそれだけの「価値」があるものを売っているのかどうか、ということですかね。
「人が好いている」という理由で役にも立たないものを売っているというケースは色々とあります。
「人が好いている」即ち「役に立つ」ものか、答えはノー。
「結果」としてそれは、その人を「苦」へと導いていることが多いのです。
しかし、「原因」と「結果」が時間的に離れてるものですから、気付かない人が多い。
瞬間的には「楽」になるかも知れません。しかし長い目でみるとそれは「苦」でしかなかった、と。
「結果」が出た頃にはもう遅い、なんてこともあるんです。
「結果」は我々が思うところよりもずっと「先」にあるものだと思います。
では本文。
中間テストももう後半です。はやいもんです。

一時限目:化学:(易)
ある電車が延着してるだとかで開始が三十分遅らされまして。
その間友人に資料集を見せてもらってたりしまして。
結局その三十分で学んだことは出なかったんですが、
全体的に「点取り問題」が盛りこまれてたんでそこそこ解けました。
でも自分、実は「そこそこ解けた」じゃいけないんです。
もう既に片足「欠点」に突っ込んじゃってまして(汗)
二学期、三学期と平均以上くらいの点をとらないといけないという計算に。
しかし次回があります、次回が(蹴)
二時限目:英W:(普)
「いつも通り」でしょう。いつも通り悪いでしょう。
いつもと違うといえば「単語」の問題ができたってことくらいです。
でも欠点にならなければそれでいいや、とも思うワケで(斬)

一応「化学」は一学期の成績、「五点」からしてかなり危険な状態なんですが、
どうもそこまで危険とは感じず何もやる気がおきないで(斬)
去年欠点とったのもそのせいですか。どうも「危険」とは思えない。
心の片隅で「どうにかなるさ」という余裕をかましてるのかもしれませんが。
そんな余裕ないですよ、と自分に言い聞かせてみるのも無駄だったようです。
さて、帰宅して夕方になって整骨院へと行きました。
今度は何故か左肘に針をうたれました。何か関係してるんでしょうか。
もう太腿のほうは動かさなければほぼ痛みはないみたいで。
押されて痛みを感じる範囲が少ししかなかったのには自分も驚きました(何)
しかし依然「膝」が痛い。太腿よりもむしろこっちが痛い。
太腿の怪我が原因でなったことでしょうから、太腿が治ればそっちも治っていくとは思うんですが。
まだ暫くは様子見、ですかね。
太腿も痛くはないといってもまだ「走る」等のことはできませんし。
話を戻しまして、それから「ピアノ教室」へ行き、帰ってきてやはりだらだら。
弟が買ってきた「バーンアウト3 テイクダウン」というレースゲームが面白いです。
レースゲームなんて滅多にしない自分ですがそれでも面白い。
表向きは「レース」ですけど結構「アクション」性の強いゲームでして。
「三国無双」とかザクザク敵をなぎ倒すものが好きな人にはオススメです。
…別に宣伝とかそんなんじゃあありません(汗)
テストはもう一日あるということを忘れかけていた一日。
では。

THE SYMPATHIZER.

2004年10月17日
過度の「情」をはさんではならないと思った今日この頃。
「情」というのは何かと「判断力」を狂わせます。
例えば事故を起こしたのが警察官の息子なら、警察官はそれを庇う、等。
これは二通りあって、「息子のため」か「己のため」かと。
前者はただ単に、「警察官」という立場を使って息子を助けたい、と。
そして後者は「息子が事故を起こしたと知られては自分の地位が危うい」と。
警察官を例に出したら後者はあまり実感がありませんかね。
この「情」は、まあ自分または親戚への、「直接的」な被害を避けるためのものです。
しかしこういう場合はどうなるか。
「無差別殺人の犯人は実はあまりにも純粋な少年だった」。
マスコミも何だか少年の生涯について「お涙頂戴」というようなことを流す。
こうなると、どうも人々の「情」はその少年へいく。
少年に「死刑」という「当然の結果」が出たとしても、人々は「情」によってそれに不満を持つ。
この「情」は何故かというと、「自分の心」への被害を避けるため。
自分が可哀想だと思った者が死刑になると、自分の心が痛む。それが「原因」です。
またはその人が社会的に「価値」のある人だと残念に思ったり。
何を馬鹿馬鹿しい例を挙げてるんだ、とも思われますけど、
実際にあるんです。「刑務所で小説を書き上げ、その才を認められた人」とか。
それは確かに死刑にするには勿体ないのかとも思います。
「この人は釈放したって二度と過ちを起こさない」と思いもします。
しかし、「生かしておくと人を殺すだろうから死刑にする」ものか、と。
既に過ちを犯したから死刑にされるのでしょう。
しかしその「才」が人類にとって有益であるならばやはり複雑で…(何)
複雑な例はさておき、取り敢えず「情」に揺り動かされてはいけません。
少なくとも相手の「表面的な態度」と「心の内」を見極められるようになるまでは。
では本文。
流石に半日以上寝ていると寝る気も失せまして、午前中に起床。
暇だと思いつつもパソコンに向かってました。
それからピアノに向かってみたりテレビ見てみたりやっぱりパソコンに向かったり。
…仮にも中間テスト期間中なのに何やってんでしょうまったく(汗)
いつものことといえば確かにいつものことですけど(蹴)
ピアノ、「ブルグミュラー 25の練習曲」をパラパラとめくって簡単なのを弾いてたりしたんですが。
個人的に良曲と思えるものも多々あったワケで。
こういった「練習曲」だってやはり「曲」として作られてるんだなぁ、と。
バッハの「二声のためのインベンション 第十三番」も良いですよ。
↑また特定の人にしかわからないネタを出しおってに。
さて、そうやって弾いてて、個人的にとても良い和音を見つけまして。
「ラ↓↓・ミ↓・ラ↓・ド#」、「↓」一つで基本位置より一オクターブ低いものとなります。
身近に楽器か何かがある人には一度弾いてもらいたい和音で。
勿論「個人的なオススメ」ですから必ずしも「良い」とは言い難いんですけども。
曲の最後にこの和音を弾いて、ハッときて、それから暫くずっと鳴らしてた和音でして(何)
高さとしても個人的にはこれが一番かと。全部試しましたんで。
↑暇だなお前。
ただそれだけの話をしたいがために話を引っ張りすぎですか、そうですか。
ところで何かと痛い左膝なんですが、ふとしたキッカケで右膝と比べてみたんです。
「撫でられたときの感覚」、左が何か変だったんです。
正常な右と比べて、「痺れたような感覚」があることがわかりまして。
痛むのと何か関係があるかと思ったんですが、単なる「うっ血」っぽくて。
正座で足が適度に痺れてくると感覚がなくなってくるのと一緒です。
しかしちゃんと動かせますし問題無しということで放っときます。
太腿のほうも順調に回復してきてますし、大丈夫でしょう。
そういったことがありつつも基本的にいつもと変わらぬ休日でした。
テストより足のことのほうが気になった一日。
では。

THE FORMER.

2004年10月15日
「幼少期」というものは極めて大切だと思った今日この頃。
まあ色々なものが「形成」されていく時期で、大切だということは当たり前なんですが。
何が嫌いで何が好きだとか、そういうのは大体この時期で決まるようです。
「味覚」なんてのも、どんどんと「変化」し「形成」されていくものでして。
つまりは、「幼少期に何を食べて育ったか」で、「味覚」ってのは決まるんです。
大抵の人は普通のものを食べて育ちますんで、ほぼ共通した「味覚」を持つのですが、
何か他の人とは違ったものを食べて育った人というのは、どこかしら「好み」が周りとズレていたりします。
「三つ子の魂百まで」とはよくいったもので、幼いとき大丈夫だと思えたことは大きくなっても大丈夫だと思ったままで、
危険だと思えた、または教わったことってのは大きくなっても危険だと思うのです。
地面に落ちた食べ物でも三秒以内なら食べられる、等というものも、
やはり「幼い頃の習慣」からできたものだと思います。自分は。
ところで、そこで疑問何ですけど、やはり大阪人が芸人気質ってのは、
テレビをつけたら大概お笑い番組がやってたりすることの影響でしょうかと。
またはやはり大阪周辺に形作られた「環境」のせいか。
関東のほうじゃ父親って親父ギャグ言ったりしないんでしょうかね(何)
では本文。
二学期中間テスト一日目。
相変わらず緊張感のない自分です。

一時限目:国語:(常)
よくわかりませんがまあいつも通りということで。
しかし最後の大問、小説の一部分だけを熟読してたらできるとか言ってましたけど、
「以後の展開を説明せよ」ってな感じの問題がでて唖然。
自分は読んでないので勿論できませんでしたが、果たして読んだ人はできたのかどうかと。
二時限目:物理:(低)
授業受けてないとこんなもんです(斬)
でも意外と基礎を問われてるような問題があったため、
点数がないということはないかと思います。

さて、テスト中はいつもよりかなり早く帰宅できるのですが。
早く帰ってもやることは一緒なようで、もうだらだらと過ごしてました。
夜になって思い出したかのように整骨院へ行きました。
いつもとは違い全身マッサージっぽいことを先ずされました。
それから昨日されたのと同じ針といつもの通電、でした。
そして、今回もいつもと同じ料金だと思って「三百円」だけ持ってきたんです。
ところが今日は「五百円」。二百円足りない。
幸い、また来ることだしその時にまた持ってきたらよいとのこと。
…「足りないお金」と「また持ってくる」、そういや同じようなことを学校でも言われたような。
そうだ、「模試の申し込み料」だ、と。
一昨日持ってかなきゃならなかったんですが忘れてて、今日も忘れてて。
「明日に必ず持ってくるように」と言われたんでしたっけ。
思い出してよかった、よかった。
ところで夕飯が「牡蠣鍋」だったんです。牡蠣を貰ってきたらしくて。
貝って、食べたとき「ジャリッ」てなるともう食べる気なくしませんかと(何)
何だかそうなるともう食べたくなくなるんですよ。貝。
テスト中だということを意識してはいなかった一日。
では。

THE STICKER.

2004年10月14日
「意見を変える」ことも大切かと思った今日この頃。
「コロコロと意見を変えるな」とはいうものの、
やはり「是か非か」という「意見」では、変えたほうがいいこともあります。
変えたほうがいい、というより寧ろ、
「自分の意見を持ちつつも、どちらにもつかない立場で物事をみる」というコトが大切かと。
自分が最初にだした「意見」を「変えたくない」って意地を持つ人ってのは、
どうにか自分の意見を正しいようにもっていこう、と「曲がった目」で物事をみるのです。
そこがいけない。そこで既に「物事を正しく判断する」ということができなくなっているんです。
自分もそういう意地を張る人間だったりしますからそういう経験が幾度かあります。
後でその意地をなくして物事をみたとき、今までとは違う感じで物事が見えたりするんです。
まあ、自らの意見に過度に「固執」したり、逆に自らの意見をすぐに変える、
または意見を持たないといったことは
何事も「適度」に。そしてその「適度」が難しい。
いわばそういったことは「上に凸である二次関数」のような関係を持つというか。
「適度」から離れれば離れるほど、それは「悪化」する。
では本文。
中間テスト前日のため午前中授業。嬉しいもんです。
テストが始まればそれ以上に早く帰れる。これも嬉しいもんです。
↑いまだにテスト直前まで呑気にしてる奴。
さて、帰りの電車に駆け込み乗車などしてみた自分です。
左足に怪我をおっている身で無茶なことをしたもんです。
でも友人が走って乗り込んじゃったんだからやらなきゃならなかったんです(何)
もうすぐくるであろう電車に乗るため速歩きしてたんです。走れないんで。
そうしてると間に合うかどうかぎりぎりの位置で電車がきたワケです。
自分がそのまま速歩きをしていると、友人が走ってっちゃいまして。
それでも微妙に間に合わず、扉は閉まり始めまして。
しかしそこで車掌さんが気をつかってもう一度扉を開けまして。コレが自分にとって大迷惑でした。
ここぞとばかりに友人が乗りこんでしまい、そのとき間に合うかどうかの位置にいた自分はどうしようかと。
とっさに走るも、扉は閉まりだしまして。
それでもギリギリ入れるとふんだ自分は飛び込みました。
車掌さんがもう一度ドアを開けてくれたことも手伝って、何とか乗りこめたというワケです。
読みなおすと何だか駆け込み乗車したことへの弁解のようですが気にしない方針で。
思ったほど左足が痛まなかったのが幸いですかね。
しかしまだまだきちんと「走る」ってことは無理だと痛感しました。
帰宅して、整骨院に行こうかと思うもまだまだ時間があると思い寝てました。
…起きたら整骨院がそろそろ閉まるという時間でした(汗)
急いで準備をして整骨院へ。まだ営業してました。
今日はあの、膝が痛いという旨を伝えたんです。
そうすると膝にも通電した後、なにやら細い管のようなものを持ってこられまして。
何かな、と思っていると膝にチクリという痛みが(汗)
「針」でした。そのまま針をさしこんで内部で何かしてたようです。
献血でもそうですけど、刺されるときの表面的な痛みより、
その後、内部で何かされているという感じの痛みのほうが気持ち悪くて嫌なんです。
さて、針の効果は如何ほどかと思って整骨院を出たんですが。
膝が軽い。針をうつ前よりも歩きやすい、といった感じでした。
しかし、単なる思い込みだったんでしょうか、そのうちやはり痛みまして。
でも以前よりは軽くなった「気がする」んでまあいいや、と。
そう思うことで精神的な負担も軽くなるでしょうし。
実際のところ、効いたのか効かなかったのかはわかりませんけども。
「思いこみ」の作用ってのは結構なものだと感じた一日。
では。

THE FIXER.

2004年10月13日
「実験」には「条件の固定」が必要かと思った今日この頃。
若しそうだとするなら、「人間の感情」に対する精密な実験なんて極めて難しいものだと。
例えば「音楽が精神に与える影響」、確かに「ある程度」までは実証されてます。
ただ、その「ある程度」より上のことは調べられないんです。
人間の感情というものは内的に変化するため固定されず、
またグラフとしてその変化を表すことも不可能。
他人の感情なんて読み取らせませんから。
その「変化しつづける対象」に対する「影響」を調べようとしたってそこには「限界」がある。
ただ、「多かれ少なかれ明るい音楽は人を明るくさせる」だとか、そういう大まかなことしかわからない。
さて、そういった意味で確かに「条件の固定」というものは精密な実験には必要となってくるもので。
そうして一つの条件だけを変化させていき、それによる「結果」の変化から「規則性」を見出す。
全ての条件が変動していては何が何やらわからなくなるものです。
では本文。
今日の体育は見学ということにしました。
確かに歩けますけど走ったりできるほどではないですし。
サッカーの基本練習何かをやってたらしく、たまにボールがこちらにきて。
一度結構な勢いで飛んできたボールを右足で蹴り返したんですが、
衝撃が左足にまで届いたようで痛みまして(汗)
↑わざわざ怪我を悪化させようなことをするな。
そしてそれとは関係なく昼食の時間。
いつもの弁当とは何かが違いました。悪い意味で。
…チクワがチクワじゃなくなってました(汗)
形はチクワだったんですけど。口に含んだらなんかもう微妙に酸っぱい。
微妙にどろっとした感じがして、噛むとまた何か酸味のきいた味が。
たまにテレビとかでやってる「クサい料理」ってのはこれのもっと強烈なものなんだろうというような味でした。
多分腐りかけてたんでしょうけど、拒絶するほどの酸味ではなかったんで食べきりました。
今現在、お腹の調子はいつも通りです。
ところで、昨日頼まれて買ったやつを忍者鳥取君に渡したんですが。
教室内で掘り出したらしく、数人に興味をわかせたようで、
お金渡すから買ってきて欲しいとの依頼を受けたんですが。
…結局のところ計七個買わなければならないことに(汗)
ついでに自分の分が一個、鳥取君が三個ってのを加味すると十一個。
手では持ちきれないため、近くにあった買い物篭に入れてレジへ。
因みに、売っているのは実は玩具屋とかでなく本屋の一角で。
本屋のレジに買い物篭を持ちこむのは結構異様な光景だったかと。
でも店員さんは冷静にレジ打ちしてました。同じようなことが以前にあったのかどうかは知りませんが。
今日発掘されたのは「クリスタル原石」でした。ハイ。
残りの七つのうちに良いもの入ってたら複雑な気分ですね(何)
ところで今日は整骨院が午前までだったようで。
行く必要がないと知り、ちょっと寝転んでたらそのまま寝ちゃったようで。
暫くして膝の痛みに起こされました。
恐らくそれがなければ朝まで寝てました。微妙に便利、なんですかねコレ。
「不便」を「便利」だと感じてみようとした一日。
では。

THE SACRIFICER.

2004年10月11日
「弱点」は知ることによって始めて克服されるかと思った今日この頃。
意外と、「弱点」というか「穴」というものは、そこをつかれるまで気づかないものでして。
そしてそこをつかれるとそこが「弱点」なのだと知り、「対策」も立てられるようになる。
しかし、そのためには一度「弱点」をつかれることが必要となる。
自ら事前に発見することなんて稀なもんでして。
そして、それの規模を大きくしたものが今の文明でして。
ある「発明」が便利だというので利用する。
しかし、「事故」が起こり、その「発明」に「欠点」があったと発見する。
そしてその「欠点」を修正してまた利用する。
しかしまた「事故」が起こり… という循環。
予想できないところで「事故」というものは起こるもので。
「欠点」を発見し「改善」するためには「事故」が必要であり、
つまりは多少の「犠牲」が必要となるのです。
今我々が「安全」だと思っているものは、今までにどれだけの「犠牲」を出して「改善」されてきたものなのか。
そして今からも「犠牲」は必要となってしまうのか。
では本文。
足のほうなんですが、じっとしているとなんか膝が痛むんです。
右足の筋肉痛と同様に、怪我しているところを庇って行動するせいで何かおかしくなっているのでしょう。
大事にも至らないだろうからシップ薬などを塗って放置しとくことに。
ところでこの怪我、通院毎に保険がおりるらしいんです。
一回の診察代よりそれのほうが高ければ当然差額が利益となるワケです。
利益があるのならわざと長引かそうかとも考えました(蹴)
しかし今のところ順調に治ってきてます。嬉しいやら哀しいやら。
さて、足が痛くともピアノ教室はあります。
以前台風で中止になったものの振り替えで、本来はなかったらしいんでが。
自転車に乗れる程度に回復したので自転車で行ってきました。
「本来はない日」だったせいか、人が普段と比べて少なくて。
週休二日制の学校なら三連休ですもんね。
前半二日で疲れてだれてるか、三日フルに遊んでるか、でしょう。
それとも忘れてるんでしょうか、とにかく人が少なかった。
そしてその後、あの安くなってる「宝物発掘」をまた買いに行きました。
2のほうがもう売り切れてまして、仕方なく旧版を二つ買いまして。
家に帰って掘り出してみると、なんとダブり。クリスタルの原石ですかねこれは。
ダブるなんてなんと低確率な。それともこれの割合が多いのか。
それともやはり、安い所以はこうして人気のない石ばかり買い取ったからなのか。
でも単なる偶然だと思っておくことにします。「単なる偶然」なんだと。
しかし、これ「掘り出す」のも面倒なのでもうガツガツと割ってます。
すると綺麗に石の周りがパカッと割れてくれるもんですから。
明日も懲りずに買ってくることにします。
それからはやはりあまり動かずにだらだらとしてました。
普段はだらだらしてるといってももっと動いていた気がするんですが。
階段の昇降にも手間がかかるんでわざわざ動く気も起きないワケです。
何かと面倒に感じた一日。
では。

THE REDUCTER.

2004年10月7日
「見えない消耗」はこわいと思う今日この頃。
ある事をしつづけると、当然何かが「消耗」されていきます。
そのことは、「消耗されている」とわかるからこそわかるのです。
しかしその「消耗」が「見えない」となると、どうなるか。
それ自体は「消耗」されない、つまり無尽蔵にあると思ってしまいます。
そうなるとやはり人間は「無駄使い」を始めるワケで。
そうして実は「消耗」するものだったと気付いたときには既に遅いことが多く。
「足りない」ことを知ったときが、「消耗」があったのだと知るときで。
「見えないところで消耗している何か」の早期発見は大切かと。
では本文。
やはり長引くような傷だったみたいで。
全く痛みはひかず、寧ろ酷くなっているのではないかとも。
体育祭での競技どころか、そこへ行くことすら大丈夫かという感じで。
電車で行くのは途中階段等もあるので無理っぽいんで、ホントはいけないんですけど自転車で行くことに。
途中、同じく自転車で来ている人が自転車をとめているのを発見。
自分もその付近に置くことにしたのですが。
…ここから集合場所までどれくらいあるんだ(汗)
怪我のためのたりのたりと歩いていて、そんな間違いに気付く。
あの人は単に見つかるのを避けるためあそこにとめただけではないのかと。
実際、そこから集合場所まで自分の足では結構かかりました。
歩いたせいか痛みが増してきてる感じを受けつつ、先生に今日は競技に出られないという旨を伝える。
案の定「どうしてそうなったのか」と訊かれるワケですが、
「階段で滑ってコケました」と誤魔化しておく。いじめられた人の言い訳みたいですな(何)
それで通るような「イメージ」を持たれている自分です。
体育祭、一応開会式と閉会式のみ出まして。
集団演技と、本選出場できた集団競技は見学ということに。
…何をしにきたんでしょうね(汗)
一年生のやってる盆踊りに乱入することもできませんでしたし。
ただ、今日を休めば「欠席」としてカウントされるからきた、とでも。
結構ずっと制服のまま観覧席にいる生徒もいましたし。
保健室へ行って具合を見てもらうのも一つの今日ここにきた意味でしょうか。
そして帰るワケですが、そのとき、知らない先生に声をかけられたんです。
単なる怪我だと話しても、「高校生がそんなところで転ぶか?」となかなか鋭い指摘を。
何かしらイジメじゃないかとか問われましたが、結局怪我ということで納得されました。
イジメではないですし。これ。
しかしゆっくり歩いてると色々と普段は見つけられないような発見もあったりするワケで。
一つの「景色」を見る時間が長いもんですから。
しかしそれは置いといて、自転車に乗ったところまで話をとばして。
自転車にまたがったところで、問題がある事に気付く。
くるときより傷が悪化したせいか、足が上がらない。つまりこげない。
しかしなんとか片足だけで自転車をこぐ方法をみつけて頑張って帰りました。
こいだあとペダルから足を話すと自然とペダルが上へ上がってくることを利用しまして。
端から見たら奇妙な光景だったでしょうに、と。
そして、帰ってから近くの整骨院に行きました。
どうやら肉離れのようなものと筋肉の怪我らしく。
自分には何が何かわかりませんでしたが、取り敢えず処置をしてもらいました。
負傷部に塗り薬を塗り、ちょっと厚みのある布をあてて、その上から包帯のようなものを巻く、と。
あと、お風呂に入ってもあまりそこを温めないこと、と。
これでまあ、痛みも少しは抑えられるし治りも早くなるとか。
やはりこういうことってのは詳しい人に見てもらうもんだな、と。
踵を怪我したときは完全に自然治癒にまかせてましたから(汗)
明日から大丈夫かと思った一日。
では。

THE USELESSER.

2004年10月6日
「第一印象」は大事かと思った今日この頃。
いえ、そこまで大事だとはいわないんですけど、ある場合においてはとても大事になります。
それは、「相手がとても思いこみの強い人だったとき」。
一度かけた「色眼鏡」が外せないというか、人への「イメージ」を固定してしまう人というか。
そんな人に対して、「第一印象」というものはとても大きなものになります。
即ち、「第一印象」こそが「全て」だと思われてしまうんです。
悪い印象を感じさせると、その後何をしていても、例えいいことをしていても、
「あの人はこんな人だから、きっと何か魂胆があってそんなことをするんだ」と思われる。
つまり、第一印象で「悪い人」だと思われたら、いくら良いことをしようと「良い人」だとは思われない。
そしてこれは、「第一」という言葉を除けばそこまで思いこみが強くない人でも同じことなのです。
例えばいつも悪い点数をとっていた人が急に良い点をとる。
誰もが「嘘だ」と思うはずです。これが「印象」の効果ってやつです。
例えば「あんなことをする人じゃなかったのに。」、これも「印象」というものです。
そして、この「印象」は、結構良くも悪くも「利用する」ことができるんです。
どう「利用する」のかってことは一概にはいえませんのでかきませんが。
では本文。
明日は体育祭です。別に楽しみじゃないですけど。
「サバイバルレース」の本選出られませんしね。
そして、そのつまらない体育祭を更につまらなくさせそうな出来事が一つ。
…足を痛めてしまいました(汗)
正確にいうと左足の太腿の外側。恐らく筋肉が負傷してるかと。
原因としては、休み時間、友人に数回ひざ蹴りを食らわされたってことが挙げられるかと。
一回だけでも辛いんですが、それを複数回やられるとこうなるみたいで。
今まで多くても一日二回でしたし…(何)
帰宅して暫くするまではそこまで痛くなかったんです。
何だか筋肉痛のような軽い痛みはあったんですが。
…それがここまで発展するとは(汗)
段々とそこを動かすことに痛みを感じ、階段の昇降はおろか、歩くことにさえ不便を感じるように。
太腿の筋肉ってのはそれこそ足を上げたり下げたりする際に伸縮させる筋肉ですから、
それをあまり使えないってことはそういう動作があまりできないということで。
シップなんて貼ったりしつつ、なるべくそこに力をいれないような動作で行動してるんですけども。
…「健康」ってのは、ほんとに有り難いことだなあと(汗)
不便で不便でしょうがない。以前踵を痛めたときもそうでしたけど。
まあ腕が大丈夫なだけまだマシというか、ですね。
しかし、こういうときってのは結構面白いことを発見できる機会でもあります。
今までどういったときにそこの筋肉を使ってたか、など。
そこを使えば痛むワケですから、使ってるときってのがわかるワケです。
そしてそれを考えてどういう動きをすべきか考えるのもまたオツです。
しかし、注意せねばならないのが「二次災害」。
慣れない動きでバランスを崩してこけて怪我をするとか、そういうのが今は一番こわいのです。
「時期」も悪かったですね。体育祭の前日だなんてまったく。
踵を痛めたときも、登校ならちょっと早めに出たらいけたワケで。
しかし「体育祭」となると、色々としなければなりませんし。
痛みがひかないなら、見学ってことにしようかと思うのですが。
組体操なんてできませんから。この状態だと…(汗)
症状が軽くなるのを祈るだけですが、ただ、こういう怪我って大抵短期間では治らないんです。
踵の怪我のときも自然治癒で一ヶ月くらいかかりましたし…(汗)
半ば諦めつつ寝ることにします。
また、今回「恨める相手」がいないってのもまた苦痛でして。
やった相手が「友人」ですから。相手もそんな事態は想定してなかったでしょうし。
所謂「悪」のいない事件。一体何を恨めばいいのかという、最も残酷なパターンです。
ずっと見学していられるならそれはそれで良い、と納得しておきます。
少しでも可能性があることは避けたほうがいいかと思った一日。
では。

THE CHEERER.

2004年10月3日
「応援」の効果も結局は「される側」にかかっているかと思った今日この頃。
気分が良いと少しの応援でさえも大きな効果をもたらしたり、
逆に不調なときはいくら応援しても駄目だったりと、応援による効果は状況によって様々。
また、「応援」ができないような状況であれ、普段から応援されていれば、
「今だってきっと応援されている」、「される側」がそう思うことで効果は出るのです。
たとえそのとき応援をされていようがされていまいが。
大切なのはあくまで「される側」の心持ち。
声援を聞いてはじめて頑張れる人もいれば、
声援がなくとも「自分は応援されている」と信じて頑張る人もいる。
そこです。「応援されている」ということを実感し、それによって普段より高い記録を出す。
本人が「応援されているから頑張る」と思わないことには始まらないのです。
そしてまた、「見える」応援をされたら頑張る人であれば、
「応援する」ということがないと始まらないのです。
個人的には「能力が高まる」というより、「最大限の力を出しきれる」のだと思うんですが。
別に能力の「最大値」は増えない。しかしそれを最大まで使うことができるようになる、と。
では本文。
寝るのは遅かったのに無駄に早起きしました。
朝はネットゲームが空いてるだろうと思ったのです。
また昼寝をすればいいやと思ったのです。
しかしやはり、起きてしまえば眠らなくなるもんで。
そのままずっと起きてました。休日だというのに寝不足です。
さて、今日は小学校のほうで運動会がありまして。
小学校と家が近いせいもあり、色々と聞こえてくるんです。
…「地上の星」、いくらアレンジしたところでBGMにゃ向かないかと(汗)
確かにそれっぽい音色を使えばそれっぽい曲になりますけど。
運動会の定番といえば「クシコス・ポスト」とか「天国と地獄」とかそこらへんのクラシック曲ですけども。
あんまり聞かなくなった気がします。個人的にはあれこそ「運動会」だ、って感じがするんですが。
それはあの、「すりこみ」というか自分達が小学生だった頃の運動会でずっと使われてたからでしょうが。
でも意外と、なんだって流してみるとすんなり受け入れられたりするもんで。
あまりにも場違いで無い限りは、そこまで違和感もないワケで。
さて、自分が運動会を見にも行かず家でのんびりしていると、父が「ベビーカステラ」を買ってきてくれて。
小学校の正門前で売ってたらしいです。よく儲かりそうで。
子供の好みがわかっているというか何というか、周りにあるカリカリの部分が多めでした。
それだけがせんべいのようになってるのも数枚ありましたし。
ピビンバで焦げが美味しいように、これもこういうとこがおいしいのです。
↑関係あるのか?
そしてまただらだらとしてるうちに何時の間にか運動会も終わり、夜になり。
いつもの休日のパターンです。
家に篭りっぱなしだった一日。
では。

THE RESTRAINTER.

2004年10月2日
「千文字」ということに束縛されているかと思った今日この頃。
自分がどうでもいいような話を無駄にかくのも、それがあってこそ。
この日記、使ってる人なら知ってますが、「文字数カウンター」なるものがついてまして。
そこでたまたま、「千文字以上」である日記が続いた、と。
すると自分の性格上、それを続けようと思ってしまう。
そして「千文字以上」ということを気にし、それに満たないときはどうにかしてそうしようとする。
しかし果たして、そこまでして「千文字以上」かくことに何か意味があろうか、と。
結論からいうと、それは単なる「自己満足」だ、と。
誰も、そう自分でさえも、千文字稼ぐために付け足したような意味のない部分に面白みを感じはしない。
元から全体的に面白くないものですが、そこでも特につまらない。
しかしそれでも形式上は「千文字以上」となり、自分はそれに「納得」する。
無理してつまらないことをかくより、面白いことだけをかけばいい。
少なくとも、自分がかいてて面白いと思えないことは読んでも面白くないハズで。
そういった「千文字」への無駄な「こだわり」、「意地」、「執着」を捨てて、
これからはかけるだけのことをかこうかと。
こうして「宣言」することが、また自分に変化への「納得」をもたらす。
では本文。
日記にかくには不謹慎かと思ったんですが、
多分個人の日記であらば間違いなくかくであろうので、今日の出来事について一つ。
…学校に救急車が来ました(汗)
事件というか、事故があったんです。
事故自体はあまり派手ではないものでしたが、大変なことで。
それは自分がいつものように階段辺りにいたときの話。
今日は壁と壁の間に手と足を伸ばしてつけてふんばる、という新しい遊びというか何というかを友人に教わりまして。
丁度身体が地面と平行になるような感じで。これだけでなかなか楽しい。
学校では他に娯楽がないから故に楽しいんでしょうけど。
しかし工夫次第で色々と出来るもんだな、と。
話を元に戻して、暇なのでそうしてその姿勢のまま上下左右に動くようなことをしていると、
ある情報がはいってきまして。
「K(仮名)が死んだ」と。Kは元クラスメートの名前なのですが。
突拍子のない情報に、Kとは何か漫画とかそういったものの登場人物かとさえ思って。
しかしKとは紛れもなく現実にいるKでありました。
すると「死んだ」とはとういうことかと。何があったのかと。
大阪人特有なのかも知れませんが、「危険な状態にある」とかいう場合、「死んだ」ということがあるのです。
例えば「テスト死んだ」等、様々な「危険な状態」に対して使われます。
今回の場合、「様態が危ない」という意味でのことでした。
見てみるとそのクラスの前には既に人だかりができていて。
あることないこと様々な情報が飛び交っていたワケです。
雰囲気からして軽い騒ぎかと思ったんですが、そうでもなくて。
結局、そのときわかった情報は「後頭部をうち、痙攣をしている」とのこと。
あまり目立たない事故です。こういうのは。「打ち所が悪い」だけのことで。
だからこそ、集まっていた人々は「まさかそんなことで大事に至るはずが」と軽い気持ちで騒いでいたのかも知れませんが。
「どんな風に倒れてるか見にいこう」という人までいたりしました。
かくいう自分も、「気絶したくらいならそのうち意識を取り戻すだろう」と事態を軽くみた予想をしていましたし。
結構こういう地味な事故こそその地味さ故に恐かったりするもんです。
そのうち救急車がきて、隊員がきて、丁度チャイムも鳴りまして、
そこにきた先生の「はよ教室戻れ、笑い事ちゃうぞ」という言葉とともに教室に戻って。
まるで何事もなかったかのように授業が行われました。
そして暫くして、またサイレンの音がきこえて。
緊急連絡がなかったところから察すると大丈夫なんでしょうけど、
「わからない」ってことで少々不安でした。
しかし帰るときにはもう「イチローの新記録」に話題が変わっていたり、と。
大丈夫だと思うからこそそういった風になるんでしょう。
本当に死んでいたら、そのようなジョークすら言えないでしょう。
人間って何が原因でどうなるかわかったもんじゃないな、と。
ある条件が揃っただけで、こんなにも容易く大変なことになるのですから。
正直、自分だって今日まで「そんな珍しいこと起こるハズがない」と思っていましたし。
頭部への衝撃はなるべく避けたほうがいいんだな、と。
他人の例をもって思い知らされました。
結局、あの後はどうなったんでしょうかね。
さて、帰ってからはそのことを気にしつつもいつもと何ら変わらず過ごしました。
個人的に長い間記憶に残るだろうと思った一日。
では。

THE PILER.

2004年10月1日
今月の目標を考えてみる今日この頃。
言わずもがな「今月の日記を毎日かく」ってことですけども。
この目標、一体何の「積み重ね」かというとやはり「日記をかく」ということで。
今月ならそれを毎日欠かさず、三十一回続けることで「目標達成」になるワケです。
一日一日が「十分条件」ではなくとも「必要条件」なのです。
一日さえ欠けてはならない、と自分自身にプレッシャーを与えてみたり。
では本文。
月も変わって何かしら「区切り」をつけることのできる日ですが。
「区切り」ってのは、それを理由に何かを変える、つまり「理由」として使えるもので。
所謂「自己納得」とでもいうか、「区切りだから変えた」という「納得」をさせることができるのです。
「区切り」なんていくらでも、何かと理由づけて作れるものですが、
やはり自然と用意されている「区切り」というのは使い易いワケで。
自分は今月で宿題を消化していこうかと思ったんですが。
逆に、「区切り」で変え損ねたら次の「区切り」まで待たねばならないという心理もあるワケで。
今日は自習室へも行かずに帰りました。
しかし、今日はテストのやり直しとかしてましたし、「例外」として明日から始めようかとも。
月変わりとかに限らず、色々なところに「区切り」はあるものです。
さて、家に帰り、そこらへんにあった飴をなめていたのですが。
何やら途中から鉄っぽい味がしてきまして。
もしやと思って確認してみると、口の中が切れてました。
…飴ってなかなかこわいもんです(汗)
なめるうちに何処かに尖った部分というか、刃先のようになった部分ができて、
それでシュッと切ったのかと。小さな傷でしたけど。
飴で口の中を切るなんて、恐らく生まれて初めてです。
氷とか、溶けて形を変えていくものには注意が必要ですかね。
ところで最近、いつもに増して眠い。
単なる寝不足といわれればそれまでなんですが、それにしても眠い。
季節の変わり目で何かと体力を消耗したりするせいでしょうか。
今までなら寝不足でも一週間に一度くらい早目に寝るだけで済んでたんですが、
早目に寝た日でさえ眠いってどういうことですかと。
今日も帰ってきて取り敢えず仮眠して日記をかいてるワケで。
大体は仮眠からそのまま朝まで寝ちゃうんで途中で起きれてる今日は珍しいといえるワケで(何)
自分はどうもあの、八時間でも十分寝たとはいえない身体のようで。
身体が弱いと睡眠時間も長くなるそうですがどうかと。
結局何にも「区切り」をつけてないと思った一日。
では。

THE PATTERNER.

2004年9月30日
今月の反省をしてみる今日この頃。
…もう「まだら模様」になってきてるんですが(汗)
大体二日に一日しかかいてない割合で。
「覆水盆にかえらず」、過ぎたことを悔やんでもしょうがない、とはいうものの。
見かけだけは盆にかえせますからね。この場合。
まあ、盆にかえすことよりもこの先如何してこぼさぬようにするかを考えるのが先決です。
宿題と同じで、「あと少ししてから」という考えがこうなるのかと。
「あと少し、あと少し…もういいや」と、その日の日記をすっぽかす。
そこをどうにかするべきだと考えるので。
また、やはり「日記」という名からか、日の終わりあたりにかこうとする自分。
そうなるとやっぱり眠気やらに負けてしまう。これがまずい。
数時間早くにかいたところで、あとの数時間にかきたいことが起こるワケでもなし。
それならばその数時間分早くにかけばいいのではないか、と。
大体、かくことといえば日中、というか夜までに起こったことですし。
こうして反省を何度しても変わらないのは、反省が悪いんでなくその後の行動が悪いからかと。
一度、反省したことを反映した行動をとってみたいと思います。
では本文。
台風はさすがに過ぎ去ったようで。
駅へ向かう途中、ふと振りかえると虹がかかってました。
台風の産物、ですか。被害はこれで打ち消せないほど多かったみたいですが。
少しくすんだ虹でしたが、なんだか和むワケで。
しかし虹といえばやはりあの日の二重虹が忘れられないワケで(何)
さて、その話は置いときまして。
久々に自習室を利用しました。
居残りと重なったんで短時間でしたけど。
これから中間試験までほぼ毎日ここへきて夏休みの宿題をしなければ、と。
↑提出予定を「十月中」に変えた奴。
勿論普段の宿題もあるんですけどもね(汗)
ところで、この「自習室」、利用する際にプリントがいるワケで。
プリントというか「チェック用紙」。これに日付やらなんやらを記入して提出するのです。
それが前回でいっぱいになったんですが、新しい用紙を貰えず、新しい枠を作って提出しました。
すると帰りに新しいのが貰えたんですが、まさか古いほうが回収されるとは知りませんで。
使いきった用紙を集めるのを密かな楽しみにしようとしてたのに(何)
それだけの話です。正直、面白くも何ともない話です。
しかし頭を使うせいか、それとも時間的なものか、自習室からの帰りってお腹が空くもんです。
↑多分後者だ。
これも「だからなんだ」といわれれば困るような面白みのない話です(何)
全くかかないよりは無駄なことをかくほうがマシだと思った一日。
では。

THE REPEATER.

2004年9月28日
「一歩」だけでは駄目かと思った今日この頃。
「千里の道も一歩から」といいますが、「一歩」ってのは単なる「始まり」に過ぎない。
そこからまた「一歩」、「一歩」と、その「一歩」を繰り返さなくてはならない。
「最初の一歩」も大切ですが、その「繰り返し」もそれ以上に大切だ、と。
「ローマは一日にしてならず」とはいえど、その始まりは「最初の一日」であったと。
しかしやはりその後も何度も何度も「一日」を積み重ね、ついに「ローマ」という終着点に至る。
つまりはやはり「小さな要素」の「集合体」であるということで、
何度も何度も「繰り返す」ということが大切なのではないかと。
「繰り返す」ことへの「飽き」と戦うことも必要だ、と。
では本文。
追試の結果も気になるものの、それ以前に今日から宿題を始めようかと。
…いや、追試があるとなると何かやる気がせずに結構溜めてるワケで(汗)
しかし一日あればできる程度の量なんで、早く片付けて夏休みの宿題のほうもやっていかねばならないと。
何にせよ「追試」という一つの肩の荷がおりたワケですから「やる気」にはなれます。
「追試がある」ってのが自分の中では一つの「言い訳」になってましたから。
さて、その話から一旦離れて。
掃除をはさんで放課後に補習があったんですが、どうもシャーペンが見当たらない。
机の中に入れてあったはずなのにどこへいったのだろう、と。
そして一通り思い当たる場所を調べてもないとなると、じわじわと「不安」になってくるワケで。
そういうとき、記憶を辿ろうにもどうしてもあやふやになってしまいまして。
寧ろ、記憶があやふやだからこそなくすものかと。
ゴミと一緒に持っててうっかり一緒に捨ててしまったのだろうかとか、
ありもしないはずのことまで考え出しては不安になったり。
結局のところ、教室の掃除をした班の人が拾っていたワケですが。
こういう時、見つからなかったりすると、特に消しゴムのようななくしても構わないようなものの場合、
「なくしたこと」より、「どこへいったのか」というほうが気になるもんで。
果たして今探せば見つかるような場所にあるのかどうか、とか。
解けない「謎」が残されて、どうもスッキリしない気分になる。
そういった「経験」、寧ろ今でも残るそういった「謎」は誰にでもあるのではないか、と。
さて、話が段々とそれてきているので元に戻して。
今回は見つかったからよしということです。
単に机の移動の際に机からこぼれ落ちただけのことでした。
そういえばまた台風が近づいてきてますけどどうなりますかね。
そういったことしかネタがないのはどうかと思った一日。
では。

THE SNEEZER.

2004年9月26日
物事をはかり損ねてはいないかと思った今日この頃。
例えば、小さな仕事が少し溜まっているだけなのにいやに面倒に感じる。
実際それらをこなしてみるとそこまで面倒ではなかった、というような。
「未完了」のものを「完了」させることに、どれだけの「労力」がいるかという「予測」。
色々な条件下のもと、その「予測」は狂うものです。
最初の例のように、小さくとも多数集まるとその「数」におされてより面倒に感じる。
つまりは実際よりも多く見積もってしまうワケで。
またはその逆、実際より少なく見積もってしまう場合。
これはいざ始めるとそれ以上の労力がいるということで大変なのですが、
逆にいえば「これくらい楽勝」と思って「始める」ことは容易いので、
「始めたら最後までやる」ような性格の人には有効かと。
さて、どちらも問題なんですが、どう問題となるのか。
前者は「こんなにあるのをやるのは面倒だ」と思って、なかなかとりかかれないという問題。
取りかかってしまええば楽なのに、それまでに時間がかかる。
後者は「これくらいならこの時間から始めれば大丈夫」と思ってしまうという問題。
実際、その時間から始めると間に合わないというような。
まぁ、何だってやらなければならないことは優先してやるに越したことないんですけども。
「予測」により「時間の有効活用」をするための「予定」を立てるも、
「予測」が間違っていたら「予定通り」にはならないということ(何)
では本文。
よく考えずとも、追試一日前なのですが。
追試の勉強しなきゃならないな、と思いつつも結局殆どできてなくて。
追試は課題プリントからの出題となるからそれを覚えれば大丈夫とのこと。
…「それを覚える」ってことが自分には難関なんですけど(汗)
「暗記」というのは自分が苦手とすることの一つ。
特に、「単なる暗記」となると自分が最も苦手とすることとなります。
「書いて覚えろ」とも言われますが自分は「面倒なこと」も嫌いで(蹴)
しかしやはり人というものは「興味」のある事は覚えやすいみたいで、
自分でも確かに面白かったこととかは記憶の片隅に残っていたり。
でも歴史の語呂合わせなんて数えるほどしか覚えてません。
結局何かといいますと、「明日中に覚えられるかどうか」が心配だ、と。
追試の間だけでも覚えていればいいものなんですけど。
さて、明日の話はひとまず置いといて。
予選会での疲れをまだ引きずっているためか、それとも季節的なものか、
鼻カゼをひいちゃったようで。
元々自分は毎年この季節になるとそういった症状が出るもので。
しかしいつにも増して眠気があり、昼寝をしたりした点からみるとやはり風邪でしょうかと。
そんなのはどうでもいいですか。そうですか。
何にせよ用心は必要だ、と。咳もするようになってきましたし。
用心し過ぎるのもあれですが、やはり適度に用心しとかないと(何)
明日で一つの「区切り」ができると考えた一日。
では。

THE UNKNOWNER.

2004年9月24日
どうして「公開」するかということが少しだけわかった気がした今日この頃。
いや、如何して「日記」みたいなものを、「公開」してゆくのか、と。
「現実」との比較で、一つ一つ紐解いていったんですけども。
「現実」で「日記」なんて、自分は先ず「公開」しません。
するとしたら、ここにつけているこんな「日記」ではありません。
何故そうなるのか。それは「現実」であるから。
「見せる相手」に、「日記の書き手」と「自分」が同一人物だと知られているから。
そこなんです。何故ネットでは「公開」できるか、ってのは。
「かき手」が「現実」の誰なのかわからない、というコト。
例え知人がふらっと通れど、この日記の「かき手」がこの「自分」だとは思いやしない。
つまり、「この日記のかき手」と「自分」を「同一人物」として認められてないからこそ、なのです。
だからこそ「現実」では見せない一面だって見せられたりするもんなんです。
そしてそれだから「公開」できているものへの最大の恐怖。
それは「同一人物」だと知るものの侵入。
いや、別にある程度仲がいい、つまり自分のいつもと違った一面を知っている人なら良いんです。
しかし、そうでもなく、ただ自分を知っていて、ここのかき手が自分だと知っている人。
そういう人に見られるのが、自分は何故かたまらなく嫌なのです。
何故なのかはわかりませんが、嫌なのです。
「『同一人物』だとは思われていない」。
その「不思議な安心」があるからこそ、日記を「公開」することができるのではないかと。
そして、その「不思議な安心」がなくなった時、自分は酷く不安になる。
では本文。
体育祭の予選会。楽しみであり不安でもあったのですが。
不安な要因は見事にかき消されました。
寧ろ、絶望に変わったとでもいうべきか。
始まりからして天候が悪くて。
小雨が降ったり止んだりする中、予選会は「組み立て体操」から始まりました。
…コレ、最初にやるようなもんですかね(汗)
競技後の疲れた状態でやるのは確かに危険ですけど。
指示を出す先生が「今日のメインはこれですから」という注意をしたときにはなんだかもうすごい疑問に思えて。
メインはどう考えても「予選」でしょうに、と。
さて、それはおいといて、つまりは地面が濡れた状態で色々進行しまして。
競技中滑ってこける人もちらほら。
地面がゴムのような素材でできてるため、滑るのです。
そして後半、一競技の中止が言い渡され、
更に「80メートルハードル走」がただの「80メートル走」になったところでもうヤバイな、と。
そして案の定「サバイバル競争」も中止。
しかし、「延期」とかならいいんですが、自分達のところでは「抽選」という選出方法がとられるのです。
競技で負けて本選出場を逃すなら「納得」できます。しかし「抽選」ってのはなんですか、と。
抽選は後日行われるのですが、選ばれる確率は25%。
元々八人で走って一位二位が本選進出という競技ですから。
どうしたもんだろう、と。
そんなところで後味を悪くしてほしくないもんです。
こんなことでうだうだいうなといわれても、そんなコトには「納得」できないタチなんだからしょうがない(何)
早め早めに進行したことやら競技削減で早く帰れたこともちっとも嬉しく感じませんでした。
寧ろ、帰りにその、何だか微妙にここのことが広まってるような話を耳にしたことで不安になっちゃったりで。
本当に見られているのならどうしようかとも考え中で。
しかしそのコトで逆に前がきのようなことを考えついたわけで。複雑です。
でも、やはり「不安」のほうが重いワケで。
前がきがスラスラとかけようがかけまいが、「知人」に見られないにことたことはないんです。
悪いことに「やる気」をそがれた一日。
では。

THE PREDICTER.

2004年9月23日
「未来」は予測できないかと思った今日この頃。
自分なりに考えた結論からいうと、「できることもあるしできないこともある」と。
いや、この「イエスかノーか」っていう質問に対し「イエスでもありノーでもある」ってのは最も厄介なパターンなのですが。
「場合分け」ってやつです。現実の問題ではより一層その「場合分け」が難しいのです。
と、そういった話はまた今度にとっておいて。
自分が考えた限りの「イエスとノーの区切り」ってのは、「未来までの距離」なんです。
「一年後の自分の姿」なんていくら考えようとわからないワケです。
しかし「十秒後」ならわかる。ある程度は。
「一年後」でも「十秒後」でも「未来」です。そういうヒッカケ。
これはあの、「パラレルワールド」の拡散具合だと思うんですよ。
例えばあの、ある点から伸びる少しだけ角度の違う二直線があったとしますと、
そこからその点から近いところより遠いところのほうが勿論「ズレ」は大きいものです。
それと大体同じで、「未来」への「予測される範囲」というものは「遠く」なるにつれどんどんと拡大するのです。
しかもそれは、さっきの例みたいに「距離」に「比例」するというような生温いものでなく、
ちょっと「遠く」なるだけで爆発的に「範囲」が広がるのです。
そのため、「一年後」なんてものは「範囲」があってないものなんです。
いや、それでも「これはありえない」という事象はある程度までわかりますが。
しかし「予測」ってのは「どうなるか」であり「どうとはならないか」ではありませんから。
つまり、「現在」から「近い未来」ならば予測も可能だし、「遠い未来」なら予測は不可能だ、と。
ただ、その「不可能となる境目」というものがハッキリとしませんから。
「状況」によっても変化するでしょうし。
あと、短すぎると「予測」するために考えを巡らせているうちに「過去」になってるってこともありうりますし。
そんなところです。
では本文。
友達二人とカラオケに行ってきました。
祝日なのでフリータイムもなく、三時間だけだったのですが。
料金追加でソフトドリンク飲み放題だったんです。
いや、飲める種類が増えるだけでしたっけか。どっちでもいいですが。
今までは飲めなかったような種類のものが飲めるんです。
こうなったらやることは一つ。「全種類飲んでみよう」と。
そんなこと考えたのは自分だけだったみたいですが。
勿論三人でなんですけど、それでも大体一人あたり五杯という計算。
しかもそのうち半分ほどは普段でも飲めるものにアイスを乗せただけの「フロート」というもの。
つまりは冷たいものの割合が高かったんです。
「梅こぶ茶」とかいう面白いものもありました。
これらは普段でも別料金で頼めるみたいですが、そんなこと絶対するもんかと(蹴)
ところでその、オチというかなんというか。
最後に一気に二杯分くらい冷たいものを飲んだせいか知らないんですけど、帰りに腹痛に襲われて(汗)
↑当たり前だ。
「飲み放題」とかの恐いところってこれなんですよね。
必要以上にそうしてしまって逆に悪い結果になる、とか。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ですか(何)
さて、明日は体育祭の予選です。
自分は勿論「サバイバル競争」、つまりは「障害物競走」に出るのです。
この種目、見事予選を勝ちぬいて本選出場したとします。
本選ではなんと最後に「パン食い」があるのです。ここがミソです。
そこで取ったパンは自分のものとなるのです。
コレは例年のものらしく、今年も勿論のことやるでしょう。
この体育祭で「景品」がつくのなんてこの種目くらいです。
是非とも今年も本選に出たいと思うのですが、果たしてどうか。
そして、そのためには先ず体調から整えなくてはならなくて。
飲み放題で体調を少なからずとも崩しましたし、早く寝るつもりです。
明日は頑張ります、というのをシメにしていいのでしょうか。
そういうコトには張り切んだな、と自分のことながら思った一日。
では。

THE ARGUER.

2004年9月20日
「納得」をしてみようと思った今日この頃。
「ハッピーマンデー法」、いつからか知りませんが施行されてますが。
「祝日」を「連休」を作るために月曜日に移動させちゃおうという「法」です。
その対象となる「祝日」は段々と増え、今年からは「敬老の日」まで対象になってしまいまして。
…やっぱりおかしくありません?(何)
確かに「曜日」としては不動のものとなった「祝日」。
しかし「習慣」だったためか、「違和感」が取り払えない。
多分、去年までは自分の誕生日だったから、とかじゃないんです。
「一年間」、これが多分「違和感」のもとなんです。
微々たるものですが、「日付」でなく「曜日」でやることで、
次の同じ祝日までの「間」が「一年」ではなくなってるんです。
また、「休日」である「日曜日」とひっつけられることで、「認識」が薄まる。
例えば「ゴールデンウィーク」、あれは三日「祝日」が連なってますけど、個々の名前を覚えていますか、と。
週の間にぽつんと休みができるから「あ、今日は祝日か」と思えるワケです。
それがもう、「この週は連休だ」となると、単なる「連休」としかとらえられないワケで。
「祝日」ってのは単なる「休日」ではないハズだ、と自分はそう思ってるワケで。
しかし、ここで「納得」をするための屁理屈を一つ。
「連休」ができたことで、遠くに住む祖父母にも会いに行くことができるのではないか、と。
…今年からそんなことを始める家族がいたかどうかは知りませんが。
しかし「敬老の日」って別に祖父母に限ってもいないのでは、と。
まあ取り敢えず「納得」、無理矢理にしても「納得」、と(何)
では本文。
前がきにもかきましたが、今日は「敬老の日」です。
…ああ、やっぱり納得がいかない(汗)
如何してよってたかって「連休」を作ろうとするのか。
それこそ「そうしたい者達」の自分勝手な行動なのではなかろうか。
「週休五日制」だって、あれは単なる「改悪」だと思いますし。
確かに「失敗」して学ぶことは大切ですよ。
でもですね、「明らかに失敗すること」をするってのはどうかと。
↑いつもそんなことをしている奴が何を言う。
さて、なんか日記の「感じ」さえも変わってきたんで元に戻して。
相変わらず暇にしてました。
相変わらず暇にできるような状態でもないのに。
宿題、もう九月中に提出なんて無理なんじゃないかとも思ってきまして。
しかしだからといって「予定」を先へ伸ばすと自分またサボりますし。
実際、今サボってるのは「九月中」と決めちゃったせいかなぁ、とも。
来週には追試もありますし、短期間であれ頑張らねばならないコトになってるのではないか、と。
宿題を「終わら」せたところでそれは「始まり」に過ぎないワケで(何)
↑つべこべいわずにとっとと仕上げろ。
今日は「ピアノ教室」くらいしかなかった一日で、色々と茶を濁してたらこんなコトになっちゃいました。
たまにはこういうのもありですか(蹴)
これって「日記」なのかと思った一日。
では。

THE DEVATER.

2004年9月18日
ちょっとした考え事をしてみた今日この頃。
いや、いつもここにかいてるのは「考え事」だろうと思われるかも知れませんが、
ただ、今回いい略題が思いつかなかったというか、なんというかで。
まあ、人間の「錯覚」のうち、「視覚」のことなんですけども。
「視覚」の「錯覚」も様々にあるんですが、そのうちの一つを取り上げようかと。
「正方形をかいても正方形に見えない」というもの。
または縦と横に引かれた同じ長さの線があっても異なった長さにみえるという現象。
コレってのは、他の「錯覚」とは少し違うと思うんです。
「線を引くと違う大きさに見える」やつとかとは。
あれらは「脳」が「勘違い」を起こすんだと、そう思っています。
「脳」の「平面の空間化」や「残像現象」といった働きでそうなるんだ、と。
さて、そこでこの「縦横の長さの違い」はどうなのか、と。
コレは思うに、「眼」の時点で既に「問題」が起こっているのだ、と。
「眼」ってのはいわば「レンズ」のようにして「対象物」を映し出してそれを感じ取るワケです。
その、「レンズ」が少しズレてるのか、と。
虫眼鏡のように、完全な「円」とはなっていないのではないか、と。
いうなれば微妙な楕円形。そのため横が縦より長く見える。
いや、横のほうが長いというのは自分の場合ですが。
レンズが楕円だと映し出される像が伸びるのかどうかは知りませんが、
曲がった鏡と同じように何かしら変化はあるんじゃないか、と。
そういった、「眼」という器官自体の欠陥なのではないか、と。
そういったことはいくらでも専門書にのってそうですけども(汗)
事実とかけ離れてもいいから取り敢えず考えてみるってのは大切かと(何)
では本文。
もう今週も終わりだそうで。なかなかはやいですね。
しかし週末なのに午後から模試の数学の過去問をやらされるとは。
暑いし眠いし、全然考えが回らないんですけど(汗)
でも、宿題として出されるよりはマシですか。やり直ししないでいいし。
眠たさとだるさとその過去問の出来具合で暫く沈んでました。
電車に乗る頃にはもうすっかり立ち直ってたワケですが。
「博士の愛した数式」、そろそろこじつけた数字は出てこず、単にそういった話を出して色々としている場面へ。
全くの「一続き」ではないんですよね。
確かに「繋がっている」んですが、別に並び替えてもいけるというか。
小話を一つ一つ連ねている感じというか、なんというか。
ジョジョの第四部みたいな繋げ方だというか(何)
↑密かに織り交ぜようとするんじゃない。
さて、本の話題はおいといて。
今日も結局自習室には行かず、というか自習室開いてなかったのでは、と。
来週からやります。「来週から」。
↑それで今までいつも伸ばし伸ばしにしてきたんだろうが。
この連休で「決意」をかためようかと。
「覚悟」することへの「覚悟」を決めた一日。
では。

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