THE FORBIDDER.

2004年11月23日
一見は「悪化」してるようにみえることがあると思った今日この頃。
例えば、告知こそされてはいないが普通に考えて「してはいけない事」がある。
それを知らずにその「してはいけない事」をいる子供達が多数いた。
なので、そのことが「してはいけない事」だとして子供達全員に告知した。
しかし、「してはいけない事」をする子供たちは減らない。寧ろ増している。
そういった場合。実際にもこういった例はあるはずなのですが。
なんだか長いんで「してはいけない事」を「A」と略しますけども。
この、「告知」の前後で「A」を知る子供が増えたことを考えれば、「A」をする子供が増えてもおかしくありません。
ならば何が「減った」のか。それは「A」を「禁止事項」だと知らずにやる子供達。
「A」が「禁止事項」だと知って、「A」をやめた子供たちがいる筈です。
つまりは、「A」が「禁止事項」であることを知らずにやる子供はいなくなったということ。
即ち、「A」をする子供はそれが「禁止事項」であるということを知っている。
危険があることも知っている。それを覚悟でやっている。
つまり、危険ならばやりたくないという子供はそれをしなくなったというか、
「傷つくべき者のみがそれを続けている」状態というか。
注意を払える人が注意をできるようになったというか、
うまくまとまらないんですがそんな感じです。
「注意を守れる人」がその「注意の追加」によって更に安全になったというか。
被害に遭うべきではない人への被害が出ないようになったというか。
自分でもワケがわかんなくなってきたんで無責任ながらここらで打ち切ることにします。
では本文。
朝、目を覚ますも起きようという気が起きない。
しかしだからといってもうちょっと寝ようという気も起きない。
起きようと思うも何故か溜まっている「やるべきこと」ばかり思いつき、
何かと面倒くさく感じてやはり起きない。
そんな感じで目が覚めてから起き上がるまでに二十分くらいかかった自分です。
面倒くさがりという性分のせいでしょうかね。
起きても何をするでもなく家の中でうろうろ。
何をしたいとも思わなかったというか。
何か思い出せないような悪い夢でも見たんでしょうかね。
目覚めが良いか否かってってのは結構その日の過ごし方に影響が出るもので。
今日の目覚めはどうだったのかわかりませんが、どちらかというと悪いほうでしょうか。
睡眠時間は多かったのですが、どうしてここまでやる気のない目覚めに。
単に寝過ぎたという事も考えられますけど。
たまにはこんな日もあるもんだと思って深く考えないことにします。
そして特に何をしたいとも思わず、することにも特に面白みを感じず、一日が過ぎていったワケで。
何というか、いつもと比べて無感動だというか。
いつもよりもある出来事に対して感じることが少ないというか。
行動理由が「そうしたいから」でなく「そうしとけばいいか」になってるというか。
例えばパソコンをしていても暇になり、何もやることがなくなったとき、
「ピアノができるようだからピアノをしよう」と思ってピアノをするとか。
特に「何がしたい」という事でもなく、そうしてある種「作業」のようにやることを変える。
そして当然、「やりたい」という理由ですることになったワケではないため、それも早くに飽きる。
そうなるとまた次に、「何かできることはないか」と考えそれをしにいく。
そんなことの繰り返しだったような気がしなくもない日で。
「そんな日もある」、取り敢えずはこの一言でおさめとこうかと。
思い返すと何をしていたのだろうと思った一日。
では。

THE GRASPER.

2004年11月21日
何を以って「違い」とするかと思った今日この頃。
例えば、ある似た二曲について、「同じ」だと言う人と「違う」と言う人がある。
「同じ」だと言う人は、その二曲のような曲にあまり興味が無く、
曲の感じがほぼ同じであるので、自分にとっては「同じ」だと判断した。
「違う」と言う人は、その二曲のような曲に興味があり、
そのため二曲の違いを一つ一つ感じていたため、「違う」と判断した。
音楽に限らずとも、こういったことはいえるんですが。
なんとなく、「興味のないもの」というものは似ていると「同じ」だと思える。
それは恐らく、「違い」をみつけようともしないためか、それとも「興味が無い」という時点で既に「同じ」だとみなされかけているからか。
例えば、TVゲームに興味の無い人は「そんなものは全て意味の無いものだ」といって一つ一つの違いを知ることもなく突っぱねる。
活字が嫌いな人は「小説なんてどれもこれも同じだろう」といって本を開きもせずに「同じ」と判断する。
そのように、「同じ」だと言う人は「違う」と言う人よりもその対象を「大雑把」な視点で見ていることが多いのではないか、と。
では本文。
今日はパスカになど行ってきました。
ゲーセンに行くのは結構久々であります。以前とは大違いですね。
「GUITARFREAKS V」のロケテストが今日までやってるということで。
いや、勿論のことDMのほうも同じくロケテしてましたけど、そっちは置いといて。
先ず、相変わらずというか意外にもというか、人が少ない。
他所では結構混んでたりするらしいのですが、最終日だからでしょうか。
デザインはカッコ良いと思いました。以上。
…他には特に印象に残ったことがなくて(汗)
あと、稼動から約一ヶ月は過ぎてるんですが「BMIIDX RED」もやってきました。
新曲、「RESONATE 1794」というのを選んでみました。
ネット上で情報集めなんてしてるときに、「原曲はベートーベンのソナタか」とかいうのを見たのが選曲理由です(何)
序盤、特に聴いたこともない音階ばかり。
ピアノ以外の音のほうが大きくてピアノ音らしき音が殆ど聞こえないだけかもしれません。
これは知らないソナタなのかと思いつつ中盤辺りまできまして。
ここらへんから譜面が難しくなってくるのですが。
せかせかとボタンを叩いてると、耳に何かしら聞いたことのある音の流れが幾度か入ってきました。
「悲愴 第一楽章」の中盤、16分の続くあの部分でした。
↑そんなあやふやなのは伝わるはずがない。
でも、そこ以外全く「悲愴」の面影が無い気がしたのは気のせいか。
それともそこだけを形どったリミックスだったんでしょうか。
原曲がクラシックといえば「V」や「革命」や「NO.13」がありますが、
原曲を先に知っていたというのはこの「RESONATE 1794」が初めてで。
だからなんだというようなことでもありませんけども。
ところで、帰りに勘定してみると、音ゲーよりもプライズゲームに使ったお金のほうが多いことが発覚。
コンビにキャッチャーにて「マリオのピンバッジ」を見つけたせいですね。
当初は何を目的にパスカへ行ったんでしたっけ自分。
家に帰ってからは「いつも通り」といえる範囲内の生活をしてました。
しかし、明日学校へ行けば明後日は祝日となると気が楽ですね。
予想以上の出費があった一日。
では。

THE DELIVERIER.

2004年11月18日
「下への変位」への感情の起伏は多いかと思った今日この頃。
例えば、何も楽しみがない日に何も楽しみがなかったとしても何も感じません。
感じたとして「つまんないなぁ」ということくらいでしょう。
しかし、何か楽しみが予定されていた日に、その予定が打ち消された日。
それはもう、その「差」から、悲しんだり怒ったりするでしょう。
「今日は遊園地に行くって約束してたのに…」だとか。
そうした、「準備」の裏切りというか、自分にとって「利」であることがそうでなくなるというか、
そういった、「上」を予想していた物事が「そこより下」の結果になると、
その負への衝撃というのは必要以上に強いものとなります。
「下」を予想しておいて「そこより上」だった場合よりも強い、と思うんですがどうでしょう(何)
では本文。
今日は何かと楽しみにしていたものが届く日。
幸い居残りもなく、学校が終われば早足で家へと帰りました。
届いているはずのものは「DDR FESTIVAL」、「BMIIDX 8thstyle」、あとCDが一枚。
届いているハズ、だったんです。はい。
しかし家に帰ってもそれらしきものは見当たらない。
どうやら丁度母が家を空けているときに届けに来たようで、再送を電話で申し込んどいた、と。
少しがっかりするも、まあ数時間経てば届くしいいだろうと思ってました。
…予定時間内にこないってのはどういうことでしょうか(汗)
でも雨が降ってたりしましたし、色々と遅れ気味なんだろう、と。
…しかしさすがにそれから二時間たってもこないってのは一体何かと(汗)
今日中には届かないんじゃないか、でも若しかしたら届くかも、という諦めと希望が複雑に絡まるワケで。
哀しみが少しずつ憎しみと変わっていくんですが、元を正せば自分が間違いを犯したワケで、
どこにもぶつけられない感情が溜まって少し神経質になったり。
そこらへんはまだまだ子供ですね自分。衝動は抑えられません。
宅急便の営業時間も過ぎ、いよいよ諦めに入って数分後、チャイム音が。
やっと届きました。ほっとするやら嬉しいやら、遅いと怒ってみるやら。
少しずつ眠くなってきて、なんだかやる気も少しずつなくなってくる時間帯でしたし。
「今日に届かない」という、最悪とでもいうべき事態は避けられたものの、
「帰ったら既に届いている」という最善の事態には遥かに劣るワケで。
明日も学校だということで、夜は時間が制限されますし。
それでも、今日少しでもできるというのは「不幸中の幸い」とみるべきか。
今日のところは適当なところで区切りをつけてやめました。
一日あけるとその分受ける楽しさも減りそうなんで、できるだけ今日にまとめてやっときたかったんですけども。
果たして今日の不幸は明日の幸と出るか不幸と出るか。
そのことしか考えてなかった一日。
では。

THE RECOVERER.

2004年11月17日
「心」は知っているかと思った今日この頃。
例えば、カードゲーム等で「イカサマ」をしていると疑われた男がいる。
しかしその男は「していない」と疑いへの否定を続ける。
確かにそこにその「証拠」はなく、ただ「感じ」では確実だというだけで疑いをかけていた。
こういったケース。いつの時代でも見かけるようなことです。
「証拠もないのにどうしてそうだと言い切れる」と、疑われた側は言うのです。
しかし、やったにしろやってないにしろ、「していないという証拠」もないのです。
そこで「水掛け論」が始まるのはどの時代でも同じでしょう。
しかし、もしその行為が「意図的」なものであれば、「被疑者」は必ず「知っている」んです。
自分がその行為を行ったか否かということを。
疑う側は、行動から見て結論は明らかだと思うも、「証拠」がないため確定できない。
単なる「行動」や「反応」は、「決定的な証拠」にはならない。
いずれにしろ、なんだって「意図的」なことであれば「本人」は知っているんです。
すなわち本人の「心」はその真相を知っている。
しかし、本人以外は知らないのだから本人が隠せばその真相は隠される。
では本文。
睡眠時間を多めにとったおかげか、単に周期のようなものなのか、
風邪のほうはずいぶんと楽になりました。
それでもまだクシャミとかは健在なので気をつけないといけないんですが。
この風邪自体はもう終わりへ向かってるようです。
しかしいまだに教室内での感染は進行してるようで。
最終的に全員に感染して終わるか、途中で止まるかどっちでしょうね。
確かめようのないことですけども気になったりしました。
今日は元々「自習室」へ行こうと思ったんですがやめときました。
「病み上がりだから」ということで己を納得させて。
明日に備えて宿題だとか煩わしいものを終わらせようかと思ってたんですが。
なんだか午後辺りになってくるとだれてきて行く気もなくなるんです(蹴)
明日は宿題未提出による居残りがないことを願いつつ帰宅。
しかし特にすることもなく、いつも通りの家での生活。
それでも自習室へ行くよりはいいか、と。
元々「明日からしかできないこと」のために「今日までにできること」は終わらせようって魂胆なんですが。
明日からでもできるけど、それを今日までに終わらせて、
明日からは明日からしかできないことを満喫しよう、と。
…いや、たいそうなことにみえて実は単にゲームが届くだけなのですが(汗)
でも届くのは明日ですし、明日からしかできないことには変わりありません。
また、自分がそれを満喫したいと思っていることも変わりありません(何)
やはり居残ってきたほうが長い目でみると良かったんでしょうけど、
自分は大体「目先の楽」を優先してしまう性分なので無理でした。
そのうち後悔するんでしょうかね。
楽しみでありつつ不安でもあった一日。
では。

THE COUGHER.

2004年11月15日
「形」は違えど「過程」は同じかと思った今日この頃。
例えば「早口言葉」、これは英語にもあります。
「正確に発音し難い文章を読む遊び」という発想があればどのような言語からも生まれるものです。
そうなるとやはり大概の国にその国の言語での「早口言葉」があるのかなぁ、と。
そしてもっと広い意味でいけば、「便利なもの」の発明。
発明品の性能等は違えど、それを発明する理由は同じ筈です。
その「発明品」ってのは、地域や文化における「不便」に対応するもので。
だだっ広い土地では「歩くよりも楽に移動できるもの」、
寒い土地では「寒さをしのげるもの」、といった具合に。
形がまったく違うものでも、同じ過程から成ったもの。
つまりその過程が共通すれば、形は違えど用途が同じものができるワケで。
生物の進化論というか、そういった類のものにもこういう話があったような気が(何)
では本文。
風邪を引いてしまったみたいです。いや至って軽い風邪ですけど。
昨日の昼頃からのどが痛いとは思ってたんですがまさか風邪に発展するものだとは。
そして恐らくこれはウィルス性の風邪です。
その原因というか理由は、別に昨日人ごみの中にいたとかそんなのではありません。
「うつる風邪」ということが示せればつまり「ウィルス性の風邪」といえるでしょう。
そしてその、「うつっている」ということの根拠が、あやふやながらにあるんです。
ここ最近、教室内で風邪が伝染しているのではないかということ。
最初に保菌者がいて、その人からだんだんとまわりにうつっていっている、と。
実際、ある人を起点としてその周りの人が欠席をしてるんです。
そして欠席までいかずとも風邪がうつったという人がまたいるワケで。
その人がまたそのまわりに菌を散布し、そしてまた、と繰り返してるうちに、
感染区域が自分の席までやってきた、というワケで。
実際、自分の左前の人は欠席してましたし。
つまりはただ、体調不良とかでの風邪じゃない、ということで。
土曜日あたりに菌を取り込み、一日潜伏して発症したんでしょうかね。
今のところセキと鼻水とでおさまってるんですが、経験者によるともう少しきつくなるんだとか(汗)
でも風邪にも「個人差」がありますし、どうかはわかんないんですけど。
自分の予想としては明日からは次第によくなるだろう、と。
ところで、そのため帰ってから粉薬を飲んだんです。
水以外のもので飲むと苦くなるらしく、水で飲んだんです。
そしてそれから暫くし、喉が乾いたので野菜ジュースなど飲みました。
するとその後、舌の奥あたりに苦味を感じて(汗)
舌にへばりついてるとは、なかなかうっとうしい粉薬です(何)
そして粉薬はこれからも水で飲むことにします。あれは苦かった。
風邪、せめて家族にはうつらないようにと思うのですがどうなるか。
風邪が唯一のネタとなってくれたかと有難がってみる一日。
では。

THE SHADER.

2004年11月14日
「表裏一体」かと思った今日この頃。
いや、自分がこの言葉の意味を間違ってとっているかも知れませんが、
「光があれば必ず影ができる」というように、必ず「対」となって存在する物事があるということ。
そこで、「善と悪」は「対」であるか、と。
いくら「悪」を裁いて取り除こうとも、あとからあとから「悪」は出てくる。
いくらその「悪」の排除手段を強化しようとも、「悪」は出てくる。
つまり、やはり人間は「悪」という「影」が基本としてあるのではないかという悲観的な考え方なのですが。
「光」だけにすることはできなくとも「影」だけにすることはできるんです。
つまり、「善」に染まることはなくても「悪」に染まることはあってしまう、と。
それを阻止するため、あらゆる角度から「善」という「光」を一生懸命出していっているのが人間の「理性」であるのでは、と。
「影」をなくすことはできなくとも、減らすことはできる。
それが「光」のもつ力であり、その力を出しつづけねばならないのが「光」の宿命か。
では本文。
平日より少し遅くに起き、「Games Japan Festa 2004 in OSAKA」に向けて家を出る。
そして最寄駅に到着。地上に出て「マイドーム大阪」へと向かう。
ところで、今年は弟も一緒でありまして。
弟の「こっちではないのではないか」という一言に不安になり、
きた道を一度戻ったりと無駄な時間を使いつつも目的地に到着。
…あれ、去年より列が少ないような(汗)
会場時間を十数分過ぎているというのに動く気配もないし。
何があったんだと思いつつ列に並び、進んだり止まったりを暫く繰り返してその「何か」がわかりました。
「入場制限」でした。そうなるほど人は入ってるようで安心安心。
しかしいざ中に入るとそこまで人いないんですが(汗)
何のための「入場制限」だったんだろうか、と。
先週のイベントと比べると圧倒的に人は少なく、DSも最高でも三十分並べばできるといった具合。
一通り見て回って、その後は自分は大概「コナミ」ブースで色々とやってたワケで。
追加曲をチェックしてみたり、新しい部分を探してみたり。
いずれも操作は家庭用の専用コントローラーでした。
しかし家でやるのとは全く違った印象を受けるワケで。
IIDXのボタンは凹んだままにならないし、DDRのほうも踏みやすい。
そしてやはりそのとっつきにくさのせいか、双方とも全体的にすいていました。
DDRなんて後半ガラガラでしたし(苦笑)
あとは相変わらず「ハドソン」ブースにいた「高橋名人」を見てたり。
携帯で写真をコッソリと撮ろうとしたら気付かれちゃったんですが、
それでも微笑んで「グッ」てポーズを取ってくださいました。
…そのポーズを取る前に撮っちゃったんですけどね(苦笑)
しかし「キングボンビー」に入って暴走してたのが高橋名人だとは思わなんだ。
その後、弟と合流し、高橋名人がステージに出るまで「桃太郎電鉄USA」でもしようか、と。
…大敗しました(汗)
でも双六なんて結局は運ですし、負けることだってありますよ。
↑言い訳とは見苦しい奴だ。
終わってからステージを見に行くと、既にイベントやってました。
それも始まってから結構時間経っちゃってるようでして(汗)
辛うじてそこから「ジャンケン大会」に参加。
結果、弟が何かの手ぬぐいを貰う。
その後その手ぬぐいにサインしてもらいました。今年のサインは銀色です(何)
それから一時間程度経ち、イベントも終わりまして。
会場から出てアンケートを書いてくじ引きを引いて帰るというのもこれで三度目です。
今年は粗品の中に「風のクロノア2のジップトップ」があったんでそれをもらっときました。
去年は確か粗品二個選べたんですけども(何)
係員の目を盗んで二個以上とるなんてできません。どうせ臆病者ですよ。
企業のほうからの結果報告が出るまで詳しくはわかりませんが、今年の人の入りはどうだったんでしょう。
自分のいた場所が場所だっただけか、去年より少ない印象が。
個人的にノートにメモを堂々ととってた人が印象に残ってます(何)
自分はこそこそとメモ帳大の紙に書くことくらいしかできないんで。
何はともあれ今年も楽しかった、と。来年も行けたらいいんですがね。
そういえば一年後のこの時期は大変なんだなと思った一日。
では。

THE GLARINGER.

2004年11月13日
「慣れ」には短所もあるかと思った今日この頃。
人は様々なことに対し、「慣れる」ということができる。
「動作」であったり、「刺激」であったり、と。
ただ、そうして「慣れる」ことは単に良いことばかりでは無い。
勿論それによって何かしら不都合が出ることもある。
今回は「慣れたからって手を抜いてしまう」とかそういう「短所」とは別の短所をつつきたいかと。
それは「鮮烈さの欠乏」。感情面というか、そういうところでの「欠点」。
例えば、ある映画を観て、言葉では言い表せないほどの感動を受ける。
そうして難度も観ているうちに、「慣れ」てくる。
そうなると、やはり「感動」はするのではあるが、初回ほどの「衝撃」のない「感動」となる。
こういったこと。感動に慣れるというか映画自体に慣れるというか、知ってしまったつまらなさというか。
やはり、あとからあとからじわじわくるものより、瞬間的にドーンとくるもののほうが「大きい」のでありまして。
そりゃ、総合的には前者のほうが「良い」のでしょうが、後者のその瞬間といったらもう物凄いもので。
「その瞬間」は、一度「知る」こと、つまり言いかえれば「慣れる」ことで、二度と得られなくなります。
また、それどころか何度も何度も繰り返すと、「慣れ」によって「平凡な感動」しか感じなくなる。
こういった点が「慣れ」の別の欠点として挙げられるワケです。
では本文。
今日は特に変わったこともなく、普通の一日でした。終わり。
…ほんとにこれだけで終われそうな一日だったんですが(汗)
学校へ行き、帰りに本屋へ寄り、帰宅し、色々とし、と。
どこにも日記としてかけるようなことが見当たりません。
なので今日、明日のために調べた「Games-Japan Festa in OSAKA 2004」についてでも色々とかこうかとも。
今日調べたことなんだし、「日記」っていえる筈です。多分。
第一、明日は感想だけで概要なんてかけないでしょうし。
今回で三度目となるこの催し、個人的に三度目にして最大の盛り上がりをみせるのではないかと。
理由としては未だ発売されていない「NINTENDO DS」の展示、でしょうか。
一年目でも「X-box」を展示してましたけど、ハード自体がマイナーで集客率はイマイチでした。
また、マイナーといえばこのイベント、ゲーム屋に置かれたチラシや、
電車の中吊り広告でしか知ることのできない結構マイナーなイベントで。
しかし、それだからこそ年々来場客が増加するのではないか、と。
所謂「リピーター」の増加及び「新規参加者」の増加で。
一昨年と昨年を比べると1.5倍になったという報告がありましたし。
個人的にはそこまで人が多くなくまったりと色々なゲームを楽しめるのがいいんですが、
今年はそういうのは望めないかもな、と。
でもDS以外のソフトはいつも通り空いてそうなんで色々とできそうです。
個人的にコナミが音ゲー持ってきたのがすごい楽しみです。
丁度音ゲー三作の同時発売の時期だったせいでしょうか。
果たしてプレイヤーがいるのか、という意味での「楽しみ」もあります。
兎に角「百聞は一見に如かず」ですし、明日を楽しみに待ちます。
何があったかあまり思い出せない一日。
では。

THE BOUNDARIER.

2004年11月11日
「違い」を知ることのほうが大切かと思った今日この頃。
例えば、「戦争を教えてこそ初めて平和がわかる」だとか、
「制限を知って初めて本当の自由を知る」とか、そういったある種逆説的なこと。
片方だけ教えてちゃ大変な間違いをしてしまうというようなことを一つ。
それは「人類皆兄弟」という、誰もが聞いたことがあるであろう言葉。
確かに、地球上にいる「人類」は、部族だとかそんなのに関わらず「人間」であるともいえます。
しかし、そこで全ての「人間」が自分と「同じ」だと思うと大変なことになります。
特に、他国だとか、他宗教だとかの地で、「同じ」だと思っているのなら痛い目に遭います。
「人間」という点で「同じ」であれど、「文化」や「習慣」という点では全くといっていいほど違うんですよ。
特に「宗教関係の規則」、これを守らないと大変なことになったりもする。
例えば、禁酒の地だと知らずに酒を飲んだらどうなることやらわかりません。
「他国民である」とか、「知らなかった」なんて言い訳にならず、処罰されることもあるでしょう。
だから是非とも安易に「同じだ」などと考えて何処でも同じ態度をとるということはせず、
「臨機応変」というか、その地域にあうような行動をとるべきである筈です。
そして、せめて自分の赴く地のそういったことくらいは学んでから行って欲しい。
「違い」を知ってこそ、それを踏まえた上で何が「同じ」なのか、ということがわかるものです。
では本文。
朝からちょっと雨が降っているとは思ったんですけども。
…まさか帰りにあれほどの大雨がくるとは(汗)
最寄駅の階段を上がり、地上に出て、雨が降っているのを確認。
普通の雨だと思い、傘を開いていつもの道を歩く。
普通の雨ではないと気付いたのは歩き始めてから暫くしてからでして。
梅雨の時機に数回あったような大雨でした。
勿論靴はいうまでもなく、ズボンが膝の上辺りまで濡れて。
しかしこの、ズボンが膝の上まで濡れるってのは何故なんでしょうか。
傘で防げてない雨粒が直接当たってるのか、地面に当たった雨粒の跳ね返ったものなのか、
または歩く際に飛び散った水滴がついてしまうのか。
考えてみたものの、別にどれでもいいかと思ってきたので話を先に進めます。
道路の脇のところの水の流れを見る限りやはりそこそこ強い雨だったようです。
季節外れというか、いやな時機にきたというか。
最近しばしば予想できないことが起こるんで常に気をつけないとなぁ、と。
地震も忘れた頃にやってくるかも知れませんし…(汗)
ところで、この時機に紋白蝶が飛んでたってのは異常でしょうかね。
それくらいのことしか頭には残っていなかった一日。
では。

THE EXTENDER.

2004年11月10日
「百聞は一見にしかず」はどうだろうかと思った今日この頃。
端的にいえば「ある物事を知るには百回聞くよりも一度見たほうが良い」ということでしょうが。
そのことの真偽でなく、ただ「一見」ということはどういうことかということで。
「一度見る」と解釈されてますが、「見る」とは「視覚」だけのそれをいうのか、と。
個人的にはこの「見る」というのは単なる「見る」にとどまらないと思うのですが。
「聴く」、「嗅ぐ」、「触る」、そういった意味も含まれてるのではないか、と。
もっと広義な言葉で言いかえれば「体験する」ってことかと。
いや、実際「百聞」の内容は、単に「視覚」だけでとらえられる物事だけではないはずでしょうし。
「あそこの梅の花はとてもいい香りがする」だとか、そういうことでもいいワケです。
しかし敢えて、「五感」を「見る」という言葉でまとめたのでしょう。
「百聞は一度の体験にしかず」じゃ、長ったらしいですしね。
そういうことでこの諺は、「一見」だからって「見る」ことのみに適用されるというワケではない、と。
「一見」にはまた別の意味があるのかも知れませんが、何しろ知識不足でして。
知識不足ながらにこうして推測をたててみたというだけのことです。
では本文。
今日もこうして、一行目をどうしようかと悩むワケですが。
別にかくことが無いワケではないんですが、こういう「かき出し」って悩むんです。
何故かはわかりませんが、自分で良いと思える「かき出し」ってのがなかなか出てこないんで。
どういったそれが良いのかもわかりませんし、また悪いのかもわからない。
元々から決めてた場合はスラスラいけるんですが、かくときに考えるとなると出てこない。
何なんでしょうかね、これ。
さて、話がいきなり横道にそれましたんで元へ戻します。
学校では特に何もありませんでした。
何もないとはいえ、「ネタ」として扱える、と思えることがないだけです。
「楽しいこと」やら「つまんないこと」ってのは色々とありますよ。毎日。
ただ、それらが「ネタ」になるかどうかは別なんでありまして。
そうなるのは「空腹時に飲んだ豆乳が凄く美味しく感じた」とか、そういうことくらいです。
ものすごく個人的かつ変動的ですが、「基準」があるんですよね。
さて、また横道にそれたんで元へと戻すのですが。
しかしこうなると何が「元」だかわかんないんですが、
自分の指す「元」とは、「その日あったことを元にしたネタの流れ」です。
「家に帰ってまた千歳飴を舐めたらやはり尖った」とかですね。
最後、口に入れて舐めなきゃなんないときは尖ったとこを折るようにしています。
それからは眠気と共にだらだらと色々としておりました。
しかし、やはり「日記」ってかくときの状態に大きく左右されますよね。
かきたかったことを忘れてたり、または要らないことまでかいてしまったり、とか。
今日は前者ですね。何だか何も思いつかなくて(汗)
日記をかいている時点では特に何もなかった日だと思われた一日。
では。

THE STEALTHER.

2004年11月9日
「真実」には二通りあるかと思った今日この頃。
「真実」とは、物事に対してたった一つだけある、どこから見ても正しい何か。
寧ろ、自分の国語力では「真実」としかいいようのないものです。
「事実」は曲げれる。しかし「真実」は曲げれないし曲がらない。
これは個人的な使い分けですけれども。
さて、「真実」も、大きくわけて二つに分けることができます。
一つは「元々からある真実」。
「何のために地球はできたのか」等、「自然」に対する「真実」。
しかしこの「真実」は、じつは「ない」のかもしれません。
地球ができてそこに生物がいるのは「偶然」であり、そこには誰の意図もない。
ただ、人々がその「真実」を存在させるために「神」を作っているのかもしれない、と。
そしてもう一つの「真実」はというと。
「人が作り出した真実」。これは必ず「あり」ます。
人が意図して作った物事には、必ず真実がある。
例えば「どうして事故が起こったのか」等。
人の心理、状態まで含めると「真実」を見つけるのは極めて難しい、寧ろ殆ど不可能に近いんですが、
必ずどこかに「ある」、と。
しかし「ある」ということだけわかってもしょうがないですよね。
「真実」を如何に「事実」を使って隠すか。
人の「心の中」の問題なんて、本人しかしりませんし、隠そうと思えばいくらでも隠せるものです。
人が作ったものには、必ず人によって作られた「真実」が付着している。
では本文。
すこし心配していた右ふくらはぎ近くの打ち身は大丈夫なようで。
体育ですこし接触したくらいでは大丈夫なようです。
左もものはやはり繰り返しやられたってのが要因だったんでしょうか。
学校では特にネタにできるようなこともなく、授業を受けて家に帰りました。
ところで、「部分積分」とか「部分分数分解」ってどこかしら早口言葉のような(何)
帰ってきて、軽く夕食などとって、目に入った「千歳飴」を食べようと思いまして。
袋から出して舐めてみたんですが、慣れないせいか何か奇妙な味。
しかしそのうち慣れて、質素ながらおいしいと思えるようになるのですけども。
これ、舐めてると先が尖ってきまして(汗)
その鋭い尖り方は、柔らかいものなら貫けるんじゃないかというもので。
実際、指にチクチクとやるとそこそこ痛くてですね。
でも実際に刺すとなると折れるかな、なんて思ったりしました。
なんとなく危険です。千歳飴。でもあと三本あります(何)
それ以外はやはり「いつも通り」といえる範囲の生活でした。
眠くなるとわかってても夜更かしをしてしまった一日。
では。

THE IMPATIENTER.

2004年11月7日
「認識」してしまうと何処かに残ってしまうかと思った今日この頃。
例えば、「占いを信じない」という人も、その結果を見聞きしてしまうと、
心の何処かでそれを気にしてしまう、といった具合に。
「人の記憶」というものにはいまだ謎が多いのですが、
恐らく「認識」してしまったものは、大概頭のどこかに、深い深い場所にでも保管されるんだと思います。
本人は覚えていないが、心のそこではそれを覚えていて、無意識的にそれに影響を受ける、とか。
本人ですら、「認知」していない、「引き出す」ことのできない記憶、
それはどこかで厄介な作用を引き起こしているかもしれません。
では本文。
久々に朝早くに起きました。
今日はDSの体験会があります。
弟二号も行きたいと言い出し、気が進まずながら連れて行くことに(蹴)
開場して十数分経った頃に会場近くにつき、二十分程度並んで中へ。
ゲームだらけ、そして人だらけ。流石はメジャーなイベントだとでもいうところか。
来週行く「GAME FESTA 2004」はここまで混んでませんで。
ゲームをやるのにもせいぜい十分程度待つだけなんですが。
こっちは十分以上は待たなければならないようで。
さて、二人でぶらぶらしてると、あるイベントの参加チケットをもらいました。
「クイズ王決定戦 予選」。二人一組でやるものらしいです。
弟二号を連れてきてよかったと思えました。
そして参加してみたんですけども。
「早書きクイズ」形式。いや、今度発売される「PICTOCHAT」なるものを使ったもので。
問題の答えをそれに「書いて送信」しなければならないんです。
それ以前のクイズを見てた限りでは、問題は至って簡単で、
ホントにその、「早く書く」ことが勝敗を決めるようなものでして。
心拍数が高まるのを感じつつ司会者の言葉に耳を傾けて。
二ポイント先取で勝ちぬけというものだったんですが、
厄介なことに、「早書き」でありながら早かった二組に対してポイントが加算されるんです。
何とか二問とも一番で正解するも、同じく二問とも二番で正解した組がいて、
「エキストラマッチ」に突入しまして。
それが「司会者がかいた絵が何かを当てる」という形式でして。
それの一問目、相手に先にかかれちゃいまして。
しかし自分の思っている答えと違う、しかし先に出された、しかし…(汗)
「先に出された」ということで焦って送信ボタン押しちゃいまして。
「非常口」の「非」だけ送られて。急いで「常口」も送ったんですけども。
…まあ、二回に分けて送ったら駄目ですよね。
「解答となるのは最初の発言のみです」と付け加えられました。
相手の答えは「出口」だったんで、ワンモアエキストラ。
ここで自分、何かと「動揺」しちゃったんです。
ペンを持つ手なんてブルブル振るえてですね。
弟二号に代わろうかと思うもやめときまして。
「絵」が出て、「テントウムシ」だと思い、即座に書き初めて。
…Aボタンでも送信されるなんて聞いてない(泣)
震えのせいで安定しない手を本体上に置いたら、ピッと送信されまして。
手前のモニターに映し出される「テ」、そしてその数秒後に移った相手チームの「テントウムシ」。
ここまで自分の「アガリ性」とやらを恨むのは久々です。
寧ろ「焦り性」。「時間制限」には弱いんです、自分。
テストでも、時間がなくなってきたらもう混乱して能率落ちますし。
しかしいやにノリのいい司会者さんでしたね。大阪独特でしょうか。
終わってからも暫く手の震えが止まらず、出展物をぶらぶら見て回る。
「ヨッシーの万有引力」、あれは外ではできませんね。「コロコロカービィ」と同じく。
ところで、「万有引力」というには少しおかしい設定かと。
地面を傾けると、今まで静止していた玉が転がりだす。
しかし、ヨッシーに対する「重力の方向」は、玉が転がる方向と逆なんです。覚えている限りでは。
何だか物理的に怪しいのですが、ゲームなので気にしないことにしました。
しかし、ただ「万有引力」という響きがいいから使いたかったんじゃないのかと。
「ヨッシーと不思議空間」とかじゃ何かしらしっくりきませんし。
そうやって色々なところを巡りつつ、「蛍の光」が流れるまで会場にいまして。
最後は蛍の光を聞きつつ「PICTOCHAT」。八人で色々と入力しあってまして。
そのうち数人が「おわり」とか入力しだすから何かと思って、周りを見るとスタッフしかいない。
一人で話てても怪しいだけなのでそそくさと退場しました。
ところで、自分達二人は何故か入口で配られるバッグを六つ持ってて。
実は出口と入口がそう遠くないんで三回入場しました。
抽選番号がかいた案内紙が配られるんです。それ目当てです。
しかし六つとも全て外れてまして。当然といえば当然ですが。
因みに、それを提案したのは弟二号で、自分は悪くありません(斬)
ところで、寝不足のせいか昼頃から頭痛がするんですが、
寝不足による頭痛って寝ないと治らないんでしょうかね。
日記としてかくにはかきたいことが多過ぎたかと思った一日。
では。

THE MOURNER.

2004年11月6日
「過去」は「過去」としてとらえるべきかと思った今日この頃。
「過去」は変えることができないというのは、つまりは過去には何もできないということで。
「過去」を恨むことはできても、「過去」に復讐することはできまい、と。
例えば人と人との間でそのもどかしさを痛感することが多い。
昔にある人に何かと意地悪をされて、今、それに対して復讐をしようとした。
しかしその人はすっかり良い人になっていて、復讐をしようにも出来ない。
こういった感じのもどかしさ。
自分が恨んでいるのはその「過去の人」であり、「現在の人」ではない。
しかし「過去の人」は「現在の人」と「同一人物」である。
でも飽くまでも復讐したいのは「過去の人」であり「現在の人」ではない。
だが、「過去の人」に対し復讐はできない。
そうすれば誰に復讐をすればいいのか、と。
以前にかいた「悪人のいない事故」のようなもどかしさがあるワケで。
それでも大罪であれば、今の状態に関わらず過去の罪に対して罰が加えられます。
まあ取り敢えず、「過去」に対してはそりゃ「心の安泰」のために恨むこともありましょうが、
「過去」から「現在」において、「恨むべき対象」が消滅し、恨みのやりどころがなくなったとき。
そのときは、もう「過去」と「現在」をきっぱりと分けて考えてみるべきではないか、と。
寧ろ、「過去」と「現在」から、「これから」どうすべきかと考えるべきでは、と。
切り捨てるべき「過去」か、引き継ぐべき「過去」か、と言うのも境目がよくわかりませんが。
では本文。
週末です。「また週末?」って感じなのですが。
なんとなく、予期もせず寝てしまった日って記憶に薄いもので。
「寝る」と思って寝てませんから、日付の区別というか切り替えができなくて。
しかしまあ、今週は不規則なせいもあってか大まかなことは覚えてます。
さて、そういうことは置いときまして。
こういうことを日記にかいていいかどうかはわかんないんですが、
朝礼にて、中三の生徒が亡くなったとのこと。
中三に弟がいる友人から聞くに、元々病院で入院してたとかでなく、
「症状」が出たのはホントに急だったらしいです。
気分が悪いということから始まって、病院に運ばれ、そのまま亡くなられたと。
自分としては、もうどう反応していいのかすらわかんなくて。
勿論、自分の友人が死んだとなれば自分は今までにないくらい悲しむでしょう。
しかし、ただ急に、そうやって朝礼で聞かされると、ポカンとするほかなくて。
「知らない人」だから、「実感がない」から、なのか。
一体、どういう条件が人を悲しませるんだろうかと。
悲しむべきなのに如何して自分は悲しめないかと。
やはり、「遠い」とこで起こったことなんてのは我知らずなんでしょうか。
遺族の方々はどうしようもない悲しみを受けている筈なのに。
こういったことは実は人間的なのか、そうでないのか、どっちなんでしょう。
ところで、よく遺族の悲しみだとかそんなことが言われますけど、
実際、一番可哀想なのは「亡くなった本人」なんです。
悔やむことも、悲しむこともできなくなってしまった本人。
生きているうちに「死を宣告」された人なんて見ればそうなんです。
一番悲しいのは「本人」なんです。ただその悲しみすら感じられないだけで。
ここまでの分、題材、そして内容が不謹慎であるといわれたならあとで消しますけども。
自分にできることといえば「ご冥福を祈ること」くらいですが、
個人的に、それは「本人」に対しては何も影響を与えないのではないかとも。
さて、暗い話になっちゃいましたけども。
いきなり明るいというか普通の話に戻すというのも抵抗があるんですけど。
明日は「ニンテンドーDS」の体験会です。
個人的に「ヨッシーの万有引力」というのが楽しみなのですが。
題名からしてなにか凄そうだと感じるのですが(何)
果たしてこれを遊ぶ子供が「万有引力」を知っているのか否かと。
「ヨッシー」と「万有引力」というイメージのギャップが面白いんでしょうかね。
生きているということも「当たり前」ではないと再認識した一日。
では。

THE SHIVERER.

2004年11月4日
結局、上下を繰り返しながら成長していくものかと思った今日この頃。
経済成長か何かの様子を表すグラフ、あれって良くなったり悪くなったりを繰り返しつつ、
基本的には良くなっていっている、らしいのですが。
同じく「文明」にもそれがいえるのではないか、と。
一気に発達し、そこで出た「副産物」によって人々が堕落し、発達をやめる。
それではいけないと対策を立て、次の世代の人々がまた世界を発達させて、と。
今はその、「下降」の時期にあたると思うんですよ。寧ろ思いたいんです。
発達による「副産物」、それは「物質」であったり「思想」であったりと様々ですが。
それが一時的に「発達」を妨げ、その上「人々の程度」としては低下する傾向を招く。
普通、「社会」に出回るものって、「長所のほうが多いもの」であるべきです。
何かしら「危険性」をはらんでいようと、それを上回る「利便性」がある。
包丁だって車だってパソコンだってそうなんです。
しかし、社会にはそうでないものも出回っている。
そこに利便性というものは殆どなく、寧ろ多くの危険性をはらんでいる。
それでも「これはこういう点において非常に役立っている」という人達がいるでしょう。
しかし、それは飽くまでも「個人レベルの利便性」であり、「社会における利便性」ではないのです。
大抵、そういったものは「楽しむ」ことを用途とするものです。
だからこそそれを否定されると「楽しみ」を取られることになるから人々は抵抗する。
「絶対的な良き事」というものは、いつでも誰にでも「楽」なことではない。
寧ろ今の時代、「絶対的な良き事」は多くの人々にとって「苦」になるでしょう。
煙草は吸わない、酒は程々に、テレビゲーム等は制限する、等。
これらの娯楽があることが時代により「当たり前」として育ってこさされた、という点においては、
やはり「発展」の次にはそれによる「堕落」がつきものであるのかと。
では本文。
校外学習なるものがありました。
三日連続の模試に続いてこれだと、逆に学校がこいしくなるかというとそうでもありません(何)
いつもと違って「不規則」なので疲れるといえば疲れますが。
しかし、友達としゃべったりすること以外に何か楽しみがあるものかと(蹴)
↑校外「学習」だという事を忘れるな。
覚えていることといえば、「大阪歴史博物館」の「ご意見板」っぽいところにいっぱい貼られた落書きとか、
帰りに電車を乗り間違えて友人とはぐれたこととかくらいですが。
しかしなんであそこで電車を乗り間違えたんでしょう。
「方面」でなく「線」を間違えるとは、やはりもうボケが始まってるとしか(汗)
状況だとかは説明しにくいので割愛しときますが。
そんなことがありつつも家に帰り、整骨院へ行って。
今日はもう書類をもらうだけで治療はしませんでした。お世話になりました、と。
それから暫くして、少し家の中が騒がしくなりまして。
「虫取り網持ってき」とか言ってるんです。
この時期に、そして家の中で如何して虫取り網が必要なのかと。
…雀が家の中に入ってきたようで(汗)
結局虫取り網は見つからず、袋で捕らえたらしいんですが、雀が入ってくるなんて珍しい。
袋ごしに見たり触ったりしたんですが、注意すべきは「クチバシ」より「爪」なのかなあと。
それがどうしたといわれればそこまでの話題ですが。
明日からはまた通常授業に戻るようで。
「変化」すると暫くの間は苦痛を受けることになるなと思った一日。
では。

THE MURMURER.

2004年10月31日
今月の「反省」をしてみる今日この頃。
「毎度毎度同じことですが」とかくのもいい加減板についてきました。
↑言葉の使い方間違っとる
相も変わらず抜けてる日が多かったのですが。
そして今月はまた、抜けた日記をあとで埋めるということをしなかった。
つまりやはり、「今日はかけないので明日にまわす」なんてことはしてはならないようで。
面倒だからといってあとに回したものは、その「あと」になっても面倒なものには変わりがない。
特に「昨日の日記」ということになるとより面倒に感じる。
そうしてそれはかかれずに放置されて、月末の反省課題になる。
以前からそういったことをかき続けているというあたり、やはり「進歩」がないのか。
「日記をかくことの手間」自体はなんら変わっていないはず。
しかし状況が変わらないということはやはり「進歩がない」、それだけのことで。
では本文。
休日。昼過ぎまでゆったりと寝ていました。
しかしすぐ前にもこうして日曜日がきて、昼頃に起きて、
また始まる「一週間」のことを考えて「嫌だなぁ」って思ってた気がするんですが。
今週一週間が過ぎるのがよほど「はやく」感じられたか。
それとも「変化」が少なかったため思い返しても何もないから「近く」感じられるのか。
なんにせよまた明日から「一週間」が始まってしまうと考えると「チェッ」という感じで(何)
日曜日でさえも、「次にくるもの」のことを考えてしまって嫌気がさすなんて嫌ですね。
そういう意味では自分が一番楽しめる日は「土曜日」とか、「次の日が休日」の日ですね。
さて、そんな話はおいといて。
足のほうはもう大丈夫ですね。膝はまだ何だかあざがあるんですけど。
健康体っていいものだ、と怪我が治って改まって認知して。
しかし、そのうちまたそれが「当たり前」になってそんな意識も薄れるんだろうなと。
実際、健康面以外でも、こちらが勝手に「当たり前」と思ってるだけで、
崩れるときは崩れてしまうものが身の回りにはたくさんありますし。
ところで、今日は久々にすごい雷がなりまして。
最近雷となればこういった大きく長い音のものも珍しくない気が。
それ以前はこんな雷なんて滅多になかった気もするんですが、単なる思い過ごしでしょうか。
最近の環境変化と何か関連性はあるのかと思ったりも。
しかし別に雷が近くに落ちたりしてるワケではないので「うわ、すごい音だな」くらいでいつも終わるんですが。
さて、そういえば明日は散発検査だというので頭を刈ってもらいまして。
季節のことなど気にせず相変わらず五厘刈りにしてもらいました。
寒くても「なっちゃったものはどうにかなる」でしょうし。
そういったこと以外は特に変わったこともないまま新しい月を迎えるワケで。
ゆったりとしていた一日。
では。

THE QUIVERER.

2004年10月27日
「環境」が最も強い影響を与えるかと思った今日この頃。
ここのところ「血液型」だとか「星座」だとかで色々と占われておりますけれども。
いや、「血液型」はまだわかるですけど「星座」って何処に根拠があるんでしょうか。
あ、「生まれた時期」ですかね。それなら或いは何かの根拠になりますし。
個人的にも「血液型」による相性とかは少しは信じるのですが、
果たして「性格」さえもそのような内的要素に決定されてしまうのか、と。
自分の意見は「そうではない」なのですが。
確かにその「内的要素」で「基本形」が決定されるのかもしれません。
しかし、やはり最終的に「性格」を形成するのは生まれてからここまで育ってきた「過程」かと。
「内的要素」はそれにちょこっとそれに見合う「補正」をするだけに過ぎないのではないかと。
だからそこまで「血液型」等を気にする必要はない、寧ろしてはならないのかもしれません。
それを気にして、「自分はつまりそういう人間なのか?」と思うこと、
その思いが結果として自分をそういう自分に成らせてしまう可能性があるからです。
一種の「思いこみ」だとか「サブリミナル効果」というやつです。
そういう意味でそういったものを取り扱ったものというのは危険かも知れません。
まあそれをうまく利用することもできなくはありませんが。
例えばそのうちの「良い部分」だけ信じてみる、だとか。
まあ、つまりは育てられてきた「環境」で大体が決定されますが、
それを超えるだけの「意志」があればその決定も覆せるんじゃないかとも思います。
では本文。
急に寒くなった気がします。昨日が雨だったせいでしょうか。
制服のブレザーがやっとありがたく感じるようになりました。
衣替え直後なんて逆に暑くて邪魔だったものですけど。
これも需要のある状況に直面してこそ価値がわかるもの、ですかね。
ところで自分はこうして寒くなってくると、手足が冷えてきます。
手なんて出しっぱなしですから外を暫く歩くだけで結構冷たくなります。
原因は何かとは思いながら、そこそこ面白いのでわざと冷やしてますけど。
何か、どんどんと進行するものがあったら「どこまでいけるか」と試してみたくなる心理とでもいいますか、
手がどこまで冷たくなったりするのかをついつい試してみたくなるワケで。
低血圧、とかそんなんなんでしょうかね。原因は。
さて、寒い中今日は体育の授業がありました。
個人的には寒いことよりまだ左足が痛いことのほうが問題でして。
しかしやはり回復はしてきているようで、そこそこ走ることならできるようになって。
完全回復もそこまで遠くはないかな、と。
…いや、もともと一週間から十日で治ると言われてたものですけど(汗)
さて、学校であったことはこれくらいでして。
家に帰ってお風呂に入って、出てから暫くして、肘から手首にかけてが痒くなる。
見てみるとなにかしら「湿疹」というか「かぶれ」というか、ぽつぽつと蚊にさされた感じになっている。
この症状、昨日も出てたんですが、まあ偶発的なものだろうと思ったんで得に気にはしてませんでした。
しかし二日連続で出るとなると、そこには何か「原因」があるなぁ、と。
二回の共通点といえば「お風呂上がり」ということなんですが。
入浴剤にでもかぶれたんでしょうかねぇ。
明日はわざとそこらへんを試してみて、原因の特定なんてしてみようかな、なんて。
しかしまだおさまってくれないんですけどコレ(汗)
痒いとなかなか眠れなかったりするんですよね(何)
塗り薬でも塗っときますか。
何かと眠たかった一日。
では。

THE CRITICIZER.

2004年10月26日
自分の日記を読みなおしてみた今日この頃。
いや、基本的に自分はその場その場の思いつきで行動するタイプで、
日記も行き当たりばったりでかき連ねることが多いのですが。
特にこの「前がき」にあたる部分。なにも題材がないときはまさにそれです。
で、そうなるとつまりその「内容」ってのも、そのときの「気分」とかに左右されちゃうワケで。
よって、「昨日の日記に何かいてんだ自分」と、かいた次の日の朝に後悔ともいえる感情が起こることもあります。
さて、結局いいたいことはといいますと。
…昨日の「前がき」がいつにも増して怪しい(汗)
何というか、取り扱う分野が何かしらオカルトとでもいうようなことになってますが。
個人的にそういった題材は避けてきたんですけども昨日のはどうかと。
「避けてきた」って、自分がそう思ってないだけで今まで多々かいてきたのかも知れませんが。
昨日かいたばかりのことだからか、その奇怪さがより目立つ気がするワケで。
まあいつもの「前がき」だって奇怪だといわれるとそこまでなんですが。
「運命」とか「引力」とかはあれです、「ジョジョの奇妙な冒険」を読んでからよく使うようになった言葉です(何)
あと、やはり殆どの場合において話がそれたまま終わらせているということ。
「行き当たりばったり」じゃそれもしょうがないかとは思うんですけども。
まあ、かいているときは別にそこまで「違和感」を感じないものなんです。
今日の日記だって、明日になって何かしら後悔するやもしれませんしね。
では本文。
さて、今日は個人的に困ったことが一つあったのですが。
…英語のテストの結果がいつもと比べて遥かによかった(汗)
周りの人からみたら困るどころか喜べ、といわんばかりのことなんでしょうけども。
予想してた結果より悪かったときはまあいいんですよ。
「うわっ、悪っ!」と、「落ち込む」だけで終わるんです。いつも。
しかし、今回のように「良かった」とき。
そんな経験が過去にないからか対処にどうしようもなく困ったワケで。
まるで自分が自分でなくなったかのような感じなんです。
「良い結果を取れたテストで悪い結果をたたき出す」ことは可能です。
しかし「悪い結果しかとれないはずのテストで良い結果をたたき出す」ことってのは一体何なのかと。
今回は「運が良かった」として心を何とか落ち着かせようとしましたが。
さて、そういった偶然もたまにはあるということで話を終わらせることにします。
それからは少し動揺はしつつも普通に、帰宅して整骨院へ行ってだらだらとして。
整骨院通いは今週末、というか今月末で終える予定です。
十一月分の保険手続き書か何かをもらいにいくのも面倒なので(蹴)
足の痛みはほぼ気にならなかった一日。
では。

THE CROSSER.

2004年10月25日
人にも「引力」があるかと思った今日この頃。
いや、生きていればそこには必ず「出会い」が生じます。
ただ、その「出会い」の相手はいくらでもいるハズなのに、特定の人に「出会う」ことになるんです。
そうなったとき、人は何かしら「運命」めいたものを感じて。
「無数の出会いの中から選り抜かれた出会い」とでもいうか、そういう風な錯覚が起こるワケで。
生きていれば偶然に偶然が重なったような「出会い」も必ずある。
見知らぬ土地でクラスメートに会うという確率もそう低くはないんです。
ただ、そうして偶然会った人とは何かしら「引力」で引き合って出会ったと考えてしまう。
一億円が当たる人が必ずいるように、そうして確率としては低くとも、必ず誰かと「出会う」ことになるんです。
その、「低い確率」の事象が起こったことを「引力のため」とみるかどうかは個人の判断に委ねられるのですが。
科学的根拠も何もありませんが、自分は取り敢えずその「引力」というものを信じます。
そうすることで出会った相手との交流がより深いものとなりますし。
「引力で引き合った相手」と思うことで、何かしらその人と自分には何かしら「引き合うべき何か」があったのではないか、と思うことが大切なのでしょうかね(何)
では本文。
そういえば化学のテストが返ってきまして。
なんと前回の56倍、とかかいたらもう点数バレますか。
テストの点数がとりうる範囲を考えれば一組しか出ませんもんね。
さて、そういった話はおいといて。
放課後「写真撮影」なるものがあったんですが。
来年の生徒証に貼り付けるための写真を撮るんです。
それが終われば帰れるということで、ピアノ教室もあるし早く撮って帰りたい、と思ったんですが。
…まさか最後になるとは思いませんで(汗)
撮影者が二人いまして、出席番号前半と後半で分けられたんですが、
自分は丁度その境目に位置するワケで。
普段の行いが悪いことへの仕打ちかと思いましたがそれは単なる思い過ごしだと考えることに。
しかしピアノ習い始めたその年から月曜日が自分のいるクラスだけ七限になるし、
何かしら妨害でもされてるんでしょうか全く。
そこそこ急いで帰ってそこそこ練習などして出ていって。
帰ってきて、かろうじて整骨院がまだ開いてるんで急いで整骨院へ行って、と。
それでやっとやることもなくなって落ち着きました。
ところで最近何かと面倒になって色々とするまでに時間がかかります。
例えば歯磨きをするだけでもなにか面倒に感じそこらへんを歩き回ってみたり、
こうやって日記をかく前にもちょこちょことあてもなくネットサーフィンをしてみたり。
なんというか、目の前の「やるべきこと」が面倒になって別のことをしてしまう、ということが多くて。
母曰くこれは「鬱の兆候」らしいですが、ただ自分が面倒くさがりなだけでしょう。
敢えて自ら「鬱かなあ」なんて思ってたらホントにそうなりかねないんでそう思うことにしました。
「心の中」のことなんて自分を含め誰にもわからないもんですし。
そうした「内的」なことはなるべく悪い方向にいくようなことを考えないことです。
不安なことを考えると、どんどん不安になるもんですしね。
何かと急がしく感じた一日。
では。

THE SCARER.

2004年10月24日
今ある「便利」は一転「不便」になるものかと思った今日この頃。
例えば「条件」があってこそ「便利」であるもの。
「自動車」は「道路」があってこそ移動に便利であり、
「電気機器」は「電気」があってこそ生活に便利なんです。
その「道」も「電気」も、既に「当たり前」と思われていますが、
「当たり前」が「当たり前」でなくなったとき、「便利」は「不便」となる。
道路が崩れてしまったとき、車はもう進むことができなくなる。
電気が支給されなくなったとき、電気機器はもう動かなくなる。
そういった、「便利」だったものが意味をなさなくなるという意味での「不便化」。
また、壊れて直せない電気機器は単なる「ゴミ」となる。
「便利なもの」が「不便なもの」に変わるという意味での「不便化」。
つまり、「条件」があってこそ「便利」といえるものは、その「条件」がなくなると一気に「不便」になるのです。
「適材適所」とでもいいますか、+ネジに−ドライバーでは「不便」なワケです。
電気のないところにテレビがあっても意味がないんです。
そして現在、「便利」なものといえば大抵「条件」は「電気の供給」。
それがなくなったとき、多くの「便利」は「不便」に変わってしまう。
電気等がなくとも「便利なもの」ってのが、実は一番便利ではないかと。
「缶切り」だとか「消しゴム」だとか「布団」だとか…
それらはもうそれ自身の持つ「便利性」を忘れられてるのかもしれませんが。
では本文。
昨日の地震への心配は何処へやら、昼過ぎまで寝てました。
しかし一夜明けてもまだ余震が続いてるようで。
被害こそあの「阪神淡路大震災」には劣るものの、地震の規模としてはそれ以上のものではないのかと。
放送される被害状況も昨日より多く、鮮明になって、
こんなのがこっちにもくるのかと思うとやっぱり怖いなぁ、と。
ところでこの大地震ってのは何大震災、と命名されるんでしょうかね(何)
しかしやはり、見る限りでは今でもこういう災害があると大きな被害は避けられないようで。
「耐震工事」だとか様々な対策をたてている割には普及してないんでしょうかね。
自分の家も地震がきたらどうなるのかと…(汗)
先に他の場所で大地震が起こると、なんだか「具体例」を見せられた感じで、
今までよりもより地震に対して警戒しとかないと、という気が増すワケで。
でもやはり自分の部屋の補強なんてめんどくさくて(蹴)
↑お前は地震がきてから後悔するタイプだ。
さて、地震の話は一旦おいといて。
足の痛みが昨日と比べて大分楽になってまして。
動かせば痛いってのは変わらないんですけど、その「程度」というかなんというかはマシになったな、と。
ところで、お腹が空いたと思ったんですが、食べ物がなくて。
母もいないんで、何かしら作れるものはないかと冷蔵庫を漁ってみました。
「沖縄そば」というものが出てきました。以前に買った覚えがあります。
二人分あったんで取り敢えず二人分作ったんですが。
一人分の麺だけを茹でるよりも二人分まとめて茹でたほうがいいかと思って。
茹であがって器に移したんですが。
…一人分だけにしとけばよかった(汗)
何だかにおいからして美味しそうだという感じを受けない。
案の定美味しくなく、とても二人前も食べれるものではなく。
そのままおいといて麺がのびるのもなんなので、麺とスープをわけて置いときました。
それらのこと以外は休日って感じに過ごしてました。
一日中家にいた一日。
では。

THE IMPACTER.

2004年10月22日
人は「変化」に対して「反応」を示すかと思った今日この頃。
例えば「いないいないばあ」、あれで小さい子が喜ぶというか笑うのは、
見えているものの急激な「変化」によるものでしょう。
また、長髪だった人が丸坊主にしたときにくる可笑しさも、
「変化」したからであり、元から丸坊主なら何も面白くないでしょう。
その、「変化」をまのあたりにしたとき、人というのはそれに対して反応を示す。
突然の爆音を聞いたり、急に明るい場所に出たり、酸っぱいものを食べたり、と。
ただ、もしかして、その「変化」から受ける「衝撃」に耐えられないときにのみ、
「外的な行動」として「反応」を示すものなのか、とも。
ただ少し音がしただけでは、その音に興味を示さない限り振り向きもしない。
また、料理が少ししょっぱいだけでは、「しょっぱい」と思うだけで。
「変化」が「受けとめられない」とき、許容する範囲以上の「変化」があったとき、
人というのは瞬間的に「反応」を示すものか、と。
何だか急なことに対して笑ってしまうのはそういうこともあるかと(何)
では本文。
朝、学校の最寄り駅から学校へ行く途中の地下通路に、鳩がいました。
鳩なんて何処にでもいるだろう、と思われるんでしょうけど、
そんな場所にはとがいるのは珍しいことで、それ故に「あ、鳩だ」と思ってしまうんです。
地上にいると敢えて認識すらされないほど「普通」である鳩ですが、
こういったなかなかいない場所にいるってだけで注目されるのかと。
勉強合宿などで単純な遊びが流行るのと同じ原理ですかね(違)
学校では別に変わったことはありませんでした。
しかしまあ、「何も起こってない」ということではなく、色々とあることはありました。
もしも「何も起こらない」日があったら、それこそ「変わってた」として日記にかくでしょう(何)
帰り、家からの最寄り駅の改札付近で紋白蝶がふらふらと飛んでました。
こういうとこに迷いこむ蝶ってのはたまに見かけるんですが、
今の時期に紋白蝶がいるだなんて変わってるなぁ、と思いまして。
でも最近は気候が変で色々と不思議なことが起こってるんで特に変わってはいないか、と。
さて、帰宅して相変わらず整骨院へいったのですが。
…まさか五箇所に針をうたれるとは(汗)
膝の辺りの五箇所に次々とうたれました。
痛くはないんですけども、それなりに「身構え」てしまうものでして。
そこまで「身構え」る必要もないのに、五度も「身構え」させられました。
だから何だって話ですけど。精神的に疲れたとでもいいましょうか。
実際は針よりもその前のマッサージのほうがよっぽど痛いのです。
ただ、針というと「注射」のイメージとかがあるぶん怖くて「身構える」んだろうな、と。
それからは家でだらだらとしていました。
色々と疲れた気がした一日。
では。

THE MISLEADER.

2004年10月21日
「意味の取り違い」もあるかと思った今日この頃。
「例示」から「意味」をとると、特にそれが起こり易かったりも。
例えば「あの人は勤勉な人だ」という話を聞く。
聞いた人がもし「勤勉」という言葉を知らなければ、
文脈からして「勤勉」とは「あの人」の何かを指すことなのだと理解する。
しかし、そこから、「どこを指すのか」ということがわからない。
そしてそこで、「勤勉」の本当の意味とは遠い「何か」なのだと理解すると、
その人は「勤勉」の意味を間違ってとらえることになるのです。
その言葉が、異なる複数の対象に対して使われたときは「共通点」を探せば大体正しい意味を取れるのですが。
例えば「レモンもバナナも黄色い」と言われれば、
「黄色い」とはその二者に共通するあの「色」のことなんだな、とわかる。
用例とその文脈、そしてその語に修飾されている対象物の特徴からその語の「意味」を類推すると、
その語の「本当の意味」と異なっていることがあります。
例えば日本で使われているカタカナ英語、結構自分達が思っている意味と本当の意味が違ってたりするんです。
そういう意味では、知らない単語は「辞書」でひいてみたほうがいいんじゃないかな、と。
では本文。
台風一過、朝は小雨が降っていたもののそのうち天気もよくなって。
見る限り、周辺でそこまで酷い被害はなかったみたいでした。
外にとめてあった自転車が倒れてたくらいです。
さて、自分は今日から新しいブレザーを着ることになったのですが。
自分が着る、としては「新しい」んですけど、実はこれ元々は弟のブレザーでして。
弟がそのブレザーが小さくなってきたから新しいのを買い、それを自分が着る、ということに。
いわば弟の「お下がり」のこのブレザー。普通逆ですよね。
しかし身長も身体の大きさも追いぬかれた今はこうなるのです。
最近になって三男にも身長追いつかれそうですし…(汗)
兄というものは弟に背を抜かされるものなのかもしれません。
自分の勘では、そういった兄弟のほうが多いと思うんですがはたして。
さて、一旦ブレザーの話は置いときまして。
学校から帰り、暫くして整骨院へ行きました。
太腿は殆ど痛まなくなってきているんですが、逆に膝がより痛くなってきまして。
それさえ治ればもうほぼ完治といえるハズなのですが。
一体なんなのでしょうかね。動かしたりすると後からジーンと痛みがくるんです。
でも遅くとも今月中には治るでしょうし、あまり深く考えないことにします。
もう一度台風がこないかと思った一日。
では。

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