THE IDENTITIER.
2004年6月10日「自分らしさ」ってどういうものかと考えた今日この頃。
「個性」だとか、そういった言葉で置き換えられるそれ。
それは果たして、どういったものなのか、と。
「他人と違う点」というのも少し違う。
「自分だけが持つもの」というのも少し違う。
そしてそれは、「内」に存在するものだ、と。
「外」に表れているものは、単なる「特徴」だとかに過ぎない。
本当の「自分らしさ」とは、「内」にある。
また、「個性がない」人はいない。
「個性が見えにくい」人はいるかもしれない。
なにせそれは、「内」に存在するものなのだから。
また、それは自分で「意識して作り上げる」ものではない。
それは、極めて自然に、自分に身についていく。
そして、それは「出る」ときには極めて自然に表に出る。
自然過ぎて、自信ではそれが「自分らしさ」だとはわかっていない。
自分が「これが自分の自分らしさだ」と思うようなことは、大抵違っている。
それは、あまりにも自然に、尚且つ確実に、自分の身に染み込んでいる。
それを見つけるには、「自分」というものを、「主観的」でなく「客観的」に見ることが必要だが、それはきわめて難しい。
そんなものが、「自分らしさ」なのではないか、と。
では本文。
昨日「自習室」でやってた「小テスト」への予習。
今回も「報われた」というか、「実を結んだ」ようです。
しかし多分「一時的な記憶」なんで、テストとかそういうときには忘れてるかも。
…こういうのもある種の「点取り虫」ですか(汗)
「小テスト」を免れただけで、以降のテストには繋がらない、と。
でも、「10」覚えればせめて「1」は頭に入ってるでしょうから。
つまりやった分の一割は繋がるでしょうから、「無意味」ともいえないワケで。
さて、その話題は取り敢えずおいときまして。
今日も自習室で宿題など片付けて帰りました。
自習室って便利です。自分みたいに家で勉強できないグータラにとってはとても。
↑家でやろうとしろ。
それで、駅で電車を待ってたんですけども。
最後尾のほう、つまり電車が最も速いスピードで通るところなんですが。
電車が来るというアナウンスのあと、自分の後ろにいたらしい男性が急に白線あたりまで足を進めて。
こういうとき、自分、すごいこわいというか、オドオドするんです。
「この人、飛び込みやしないか」と。そんなことでこわがるの自分しかいませんか。
そして電車が来るワケで。その瞬間がこわさの頂点というか、「次の瞬間」が来るのがこわいというか。
ましてや今回、その男性、何故か電車が来ると同時に手を前に出したんで、ホントにどうしようかと思いました。
結局単なる杞憂だったんですけども。
男性からすると、じっと自分を見てくるこの高校生のほうがこわかったのかも知れませんが。
そういった、「無駄」な動揺ってどうすりゃ抑えられるもんか、と。
そりゃ「知らない」ということが一番良いのですが。
「知ってしまった」、或いは「思ってしまった」場合、もう抑えられないようで。
目を閉じようと、耳を塞ごうと、その「瞬間」がなんだかこわい、と。
自分は小心者ですから余計に。
そして特に何もなく家に帰り着いて。
だらだらしてたらこんな時間になってました。
「わからない」ことへの恐怖にかられた一日。
では。
「個性」だとか、そういった言葉で置き換えられるそれ。
それは果たして、どういったものなのか、と。
「他人と違う点」というのも少し違う。
「自分だけが持つもの」というのも少し違う。
そしてそれは、「内」に存在するものだ、と。
「外」に表れているものは、単なる「特徴」だとかに過ぎない。
本当の「自分らしさ」とは、「内」にある。
また、「個性がない」人はいない。
「個性が見えにくい」人はいるかもしれない。
なにせそれは、「内」に存在するものなのだから。
また、それは自分で「意識して作り上げる」ものではない。
それは、極めて自然に、自分に身についていく。
そして、それは「出る」ときには極めて自然に表に出る。
自然過ぎて、自信ではそれが「自分らしさ」だとはわかっていない。
自分が「これが自分の自分らしさだ」と思うようなことは、大抵違っている。
それは、あまりにも自然に、尚且つ確実に、自分の身に染み込んでいる。
それを見つけるには、「自分」というものを、「主観的」でなく「客観的」に見ることが必要だが、それはきわめて難しい。
そんなものが、「自分らしさ」なのではないか、と。
では本文。
昨日「自習室」でやってた「小テスト」への予習。
今回も「報われた」というか、「実を結んだ」ようです。
しかし多分「一時的な記憶」なんで、テストとかそういうときには忘れてるかも。
…こういうのもある種の「点取り虫」ですか(汗)
「小テスト」を免れただけで、以降のテストには繋がらない、と。
でも、「10」覚えればせめて「1」は頭に入ってるでしょうから。
つまりやった分の一割は繋がるでしょうから、「無意味」ともいえないワケで。
さて、その話題は取り敢えずおいときまして。
今日も自習室で宿題など片付けて帰りました。
自習室って便利です。自分みたいに家で勉強できないグータラにとってはとても。
↑家でやろうとしろ。
それで、駅で電車を待ってたんですけども。
最後尾のほう、つまり電車が最も速いスピードで通るところなんですが。
電車が来るというアナウンスのあと、自分の後ろにいたらしい男性が急に白線あたりまで足を進めて。
こういうとき、自分、すごいこわいというか、オドオドするんです。
「この人、飛び込みやしないか」と。そんなことでこわがるの自分しかいませんか。
そして電車が来るワケで。その瞬間がこわさの頂点というか、「次の瞬間」が来るのがこわいというか。
ましてや今回、その男性、何故か電車が来ると同時に手を前に出したんで、ホントにどうしようかと思いました。
結局単なる杞憂だったんですけども。
男性からすると、じっと自分を見てくるこの高校生のほうがこわかったのかも知れませんが。
そういった、「無駄」な動揺ってどうすりゃ抑えられるもんか、と。
そりゃ「知らない」ということが一番良いのですが。
「知ってしまった」、或いは「思ってしまった」場合、もう抑えられないようで。
目を閉じようと、耳を塞ごうと、その「瞬間」がなんだかこわい、と。
自分は小心者ですから余計に。
そして特に何もなく家に帰り着いて。
だらだらしてたらこんな時間になってました。
「わからない」ことへの恐怖にかられた一日。
では。
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