生きてます。
忘れたことに対しては浦島太郎になりやすく、
気付けば三年が経っていたというこの恐ろしい状態。
それでもアクセスが無いことは無いってのが面白いですね。
ランダムで飛んできたとかそういうことでしょうか。
忘れたことに対しては浦島太郎になりやすく、
気付けば三年が経っていたというこの恐ろしい状態。
それでもアクセスが無いことは無いってのが面白いですね。
ランダムで飛んできたとかそういうことでしょうか。
今年総括
2006年12月31日一月:目標がやっと定まった。
二月:目標を達成した。
三月:受験疲れを癒した。
四月:大阪を離れた。
五月:バイトを始めた。
六月:大学生活に慣れてきた。
七月:試験に戸惑った。
八月:前期が終わって気が抜けた。
九月:夏休みの長さに戸惑った。
十月:八ヶ岳に行った。
十一月:寒くなってきた。
十二月:楽しかった。
思い出そうとすると思い出せない不思議。
こう細かく分けるものではないのかも知れませんね。
今年は変化の年でした。
高校から大学へ。大阪から名古屋へ。
何もかもが変わる変わる。
変化に適応するだけでいっぱいいっぱいでした。
その適応の中で様々なことも学びました。
井の中の蛙、大海を知る。
流石にまだ大海までは知ってはいないのでしょうが、
高校までには感じたことのなかった、
世界の広がりというものを感じた一年でした。
来年はその広がった世界を歩き回ってみたいものです。
二月:目標を達成した。
三月:受験疲れを癒した。
四月:大阪を離れた。
五月:バイトを始めた。
六月:大学生活に慣れてきた。
七月:試験に戸惑った。
八月:前期が終わって気が抜けた。
九月:夏休みの長さに戸惑った。
十月:八ヶ岳に行った。
十一月:寒くなってきた。
十二月:楽しかった。
思い出そうとすると思い出せない不思議。
こう細かく分けるものではないのかも知れませんね。
今年は変化の年でした。
高校から大学へ。大阪から名古屋へ。
何もかもが変わる変わる。
変化に適応するだけでいっぱいいっぱいでした。
その適応の中で様々なことも学びました。
井の中の蛙、大海を知る。
流石にまだ大海までは知ってはいないのでしょうが、
高校までには感じたことのなかった、
世界の広がりというものを感じた一年でした。
来年はその広がった世界を歩き回ってみたいものです。
一ヶ月と半年以上分の相違の大きさ
2006年8月30日お久しぶりです。宙一です。
今の名前は宙一ではないのですけど、ここでは宙一です。
最後の日記が去年の一月になったりしてますが、
そこからの空白をちょいちょいと埋めてみますと、
平成17年(2005)四月
無事高校三年生になる。しかし地理は追試を受ける。
受験勉強にいそしむかと思いきや、やはりサボリ気味。
同八月
「数学コンクール」に参加。
これが後に今の私の道を決定する。
高三の夏休みというと追い込みが始まる時期でしたが、
私は化学・物理の参考書を持ってウロウロしてただけでした。
同九月
「数学コンクール」で大賞を受賞したという知らせが入る。
同十一月
授賞式に出席。後日学校にてインタビューを受け、
それが「中日新聞」に小さく載る。今読み返しても恥しい。
同十二月
いよいよ追い込みの時期となるが、
やはり参考書を持ってウロウロするだけにとどまる。
当時の私は「試験日から逆算すると間に合わない」と思っていて、
そのことが勉強に向かう気を削いだとも言えます。
平成18年(2006)一月上旬
冬休みも終わろうかという日に転機が訪れる。
受けないだろうけど気になったということで取り寄せた、
名古屋大学の願書を母が気まぐれに読んでいて、
私の(消去法による)志望だった理学部に、
二月にセンター利用の推薦試験が存在することを発見。
始業式の日に先生に問い合わせると受験は可能であり、
それどころか先日の受賞は大きな武器になるとのこと。
受かれば一人暮らしとなることにも覚悟を決め、
名古屋大学理学部の受験を決意する。
急なことだったので自己推薦文の作成に追われる。
同中旬
センター試験。地理と化学は悲惨な結果となったが、
化学は理科総合Bがフォローしてくれ、
地理の悪さは国語・英語が意外にも高得点だったことに救われる。
二次対策よりも推薦(小論文)対策に本腰を入れる。
同二月
受験する。そして合格する。
その後京都大学の二次試験も一応受けに行ったが、
結果は散々だったので、逆にスッキリとした。
そして三月下旬から名古屋に単身移り住み、
何とか頑張って生きてます。
以上、単なる生存報告になってしまいました。
明日から九月三日まで学部の有志による合宿に行ってきます。
今の名前は宙一ではないのですけど、ここでは宙一です。
最後の日記が去年の一月になったりしてますが、
そこからの空白をちょいちょいと埋めてみますと、
平成17年(2005)四月
無事高校三年生になる。しかし地理は追試を受ける。
受験勉強にいそしむかと思いきや、やはりサボリ気味。
同八月
「数学コンクール」に参加。
これが後に今の私の道を決定する。
高三の夏休みというと追い込みが始まる時期でしたが、
私は化学・物理の参考書を持ってウロウロしてただけでした。
同九月
「数学コンクール」で大賞を受賞したという知らせが入る。
同十一月
授賞式に出席。後日学校にてインタビューを受け、
それが「中日新聞」に小さく載る。今読み返しても恥しい。
同十二月
いよいよ追い込みの時期となるが、
やはり参考書を持ってウロウロするだけにとどまる。
当時の私は「試験日から逆算すると間に合わない」と思っていて、
そのことが勉強に向かう気を削いだとも言えます。
平成18年(2006)一月上旬
冬休みも終わろうかという日に転機が訪れる。
受けないだろうけど気になったということで取り寄せた、
名古屋大学の願書を母が気まぐれに読んでいて、
私の(消去法による)志望だった理学部に、
二月にセンター利用の推薦試験が存在することを発見。
始業式の日に先生に問い合わせると受験は可能であり、
それどころか先日の受賞は大きな武器になるとのこと。
受かれば一人暮らしとなることにも覚悟を決め、
名古屋大学理学部の受験を決意する。
急なことだったので自己推薦文の作成に追われる。
同中旬
センター試験。地理と化学は悲惨な結果となったが、
化学は理科総合Bがフォローしてくれ、
地理の悪さは国語・英語が意外にも高得点だったことに救われる。
二次対策よりも推薦(小論文)対策に本腰を入れる。
同二月
受験する。そして合格する。
その後京都大学の二次試験も一応受けに行ったが、
結果は散々だったので、逆にスッキリとした。
そして三月下旬から名古屋に単身移り住み、
何とか頑張って生きてます。
以上、単なる生存報告になってしまいました。
明日から九月三日まで学部の有志による合宿に行ってきます。
THE SUBLIMER.
2005年1月12日「眠気」に対し「睡眠」は「後払い」かと思った今日この頃。
「眠気」が溜まると、人は「睡眠」をとってそれを取り除きます。
このとき、必ず「眠気が溜まる」の後に「睡眠をとる」がくるかな、と。
具体的にいいますと、「睡眠」は溜めることができない、と。
つまり、もし眠気がない状態で睡眠をとったとしても、
その睡眠が後からくる「眠気」を打ち消す効果は持たない、と。
数値で表すと、「眠気」というものは「0」からどんどん溜まっていきます。
そして、「睡眠」はその溜まっていったものを最低「0」まで減少させる役割を果たす。
この、「最低が0」というのが睡眠が「後払い」の理由でして。
つまり、いくら睡眠をとったところで「負」にはならない。
そのため、いくら寝たところで「0」から眠気は増加していくのであり、
増えた眠気は、またその後の睡眠で取り除かねばならない、と。
つまり、「昼寝をした分、いつもより遅くまで眠くならない」というのはあるけども、
「昨日一日中寝たから二日間普通に起きていられる」はない、ということで。
寝つづけていたら、その間ずっと「0」に保てるということもありますが、
よく考えると、人間は平均して一日に八時間寝るものであるから、
単純に考えて十六時間分の「眠気」を八時間の「睡眠」で取り除けるということで。
そこで計算すると、「0」になってから三時間睡眠をとるのも、
「0」になったら起き、二時間活動して一時間睡眠をとるのも、
結果的には同じ「0」に行きつくワケで、後者の方が良い、と。
ただ、人間の体はそこまで単純にできてませんし、「睡眠」には眠気の除去以外の意味もありますし。
つまるところ、過度に寝てしまうというのもまた無駄になるという、
「過ぎたるは及ばざるが如し」のような結論になるワケで。
では本文。
昨日は七限授業を眠らずに受けきれました。そしてよく寝ました。
しかし、睡眠時間は昨日よりはるかに多かったはずの今日、昼を過ぎてから酷く眠たくなって、最後の授業は半分寝てました。
恐らく「体育」があったせいだとは思うんです。
そこで疲労して「眠気」が一気に溜まったんでしょう。弱い体です。
そういうこともあって前がきのようなことを考えてみたんですけども。
それは一旦どこかに置いといて、鶴の話でも。
入院中の先生に「寄せ書き」だけでなく「千羽鶴」も送ろうということになって。
一人につき二十枚の千代紙が配られました。
…自分、鶴が折れません(汗)
そもそも折り紙というものが苦手らしく、母がいうには、
幼稚園で鶴の折り方を習ったとき、自分はぐしゃぐしゃの紙を持って帰ってきたそうです。
できないからって怒ってぐしゃぐしゃにした結果だったそうで。
一応、四角にしてから次の段階まではできるんですが、その時点でなんだか汚いんです。
どうしてもきちっとした三角形が折れないんです。ハイ。
なので持って帰って母と妹に折ってもらいました(蹴)
できる人がやればいいんだという発想からです。
嘘です。自分がやると面倒くさいことになるからです(斬)
↑それでも「お前が折った」ということに意味があるんだろうが。
面倒臭がりなのか、不器用なだけなのか。
要因としては両方でしょうけどね(汗)
鶴くらいは折れるようになるべきかと思った一日。
では。
「眠気」が溜まると、人は「睡眠」をとってそれを取り除きます。
このとき、必ず「眠気が溜まる」の後に「睡眠をとる」がくるかな、と。
具体的にいいますと、「睡眠」は溜めることができない、と。
つまり、もし眠気がない状態で睡眠をとったとしても、
その睡眠が後からくる「眠気」を打ち消す効果は持たない、と。
数値で表すと、「眠気」というものは「0」からどんどん溜まっていきます。
そして、「睡眠」はその溜まっていったものを最低「0」まで減少させる役割を果たす。
この、「最低が0」というのが睡眠が「後払い」の理由でして。
つまり、いくら睡眠をとったところで「負」にはならない。
そのため、いくら寝たところで「0」から眠気は増加していくのであり、
増えた眠気は、またその後の睡眠で取り除かねばならない、と。
つまり、「昼寝をした分、いつもより遅くまで眠くならない」というのはあるけども、
「昨日一日中寝たから二日間普通に起きていられる」はない、ということで。
寝つづけていたら、その間ずっと「0」に保てるということもありますが、
よく考えると、人間は平均して一日に八時間寝るものであるから、
単純に考えて十六時間分の「眠気」を八時間の「睡眠」で取り除けるということで。
そこで計算すると、「0」になってから三時間睡眠をとるのも、
「0」になったら起き、二時間活動して一時間睡眠をとるのも、
結果的には同じ「0」に行きつくワケで、後者の方が良い、と。
ただ、人間の体はそこまで単純にできてませんし、「睡眠」には眠気の除去以外の意味もありますし。
つまるところ、過度に寝てしまうというのもまた無駄になるという、
「過ぎたるは及ばざるが如し」のような結論になるワケで。
では本文。
昨日は七限授業を眠らずに受けきれました。そしてよく寝ました。
しかし、睡眠時間は昨日よりはるかに多かったはずの今日、昼を過ぎてから酷く眠たくなって、最後の授業は半分寝てました。
恐らく「体育」があったせいだとは思うんです。
そこで疲労して「眠気」が一気に溜まったんでしょう。弱い体です。
そういうこともあって前がきのようなことを考えてみたんですけども。
それは一旦どこかに置いといて、鶴の話でも。
入院中の先生に「寄せ書き」だけでなく「千羽鶴」も送ろうということになって。
一人につき二十枚の千代紙が配られました。
…自分、鶴が折れません(汗)
そもそも折り紙というものが苦手らしく、母がいうには、
幼稚園で鶴の折り方を習ったとき、自分はぐしゃぐしゃの紙を持って帰ってきたそうです。
できないからって怒ってぐしゃぐしゃにした結果だったそうで。
一応、四角にしてから次の段階まではできるんですが、その時点でなんだか汚いんです。
どうしてもきちっとした三角形が折れないんです。ハイ。
なので持って帰って母と妹に折ってもらいました(蹴)
できる人がやればいいんだという発想からです。
嘘です。自分がやると面倒くさいことになるからです(斬)
↑それでも「お前が折った」ということに意味があるんだろうが。
面倒臭がりなのか、不器用なだけなのか。
要因としては両方でしょうけどね(汗)
鶴くらいは折れるようになるべきかと思った一日。
では。
THE CANCELLER.
2005年1月10日「不安」を吹き飛ばすにはどうすべきかと思った今日この頃。
自分の考える限りでは、「消す」方法と「上書きする」方法なのですが。
「不安がるべき不安」に対しては前者、
「無駄な不安」に対しては後者をとるべきか、と。
「消す」のは、その通り「不安」となる「原因」を消し去ることで。
例えば単純な例で「録画予約はちゃんとできてるだろうか」という不安があれば、
ただじっと不安がらずにそれを確認すればよい、と。
確認する手段がない状況ではもうすぱっと忘れてみるのも手ですが。
そして、無駄な不安が、何故だか知らないけど湧いて出てくるとき。
過去の失敗への後悔であったり、不安に思ってもしょうがないことだったり。
そういうときは、自分を「不安を考えることすらままならない環境」においてみる。
「精一杯」というか、ずっと集中してなきゃできないようなことをしてみる。
それをしつつも心に若干の余裕があるものでは、不意にそこに不安が湧いてしまう。
つまり、別のことで頭をいっぱいにすることで、不安がらせる要因を思い出させない、と。
そして結構、そういうつまらない不安は一度忘れたら暫く戻ってこないものです。
運動したら気分が爽やかになるというのは、「体の活性化」に加え、そういった効果もあるのでしょうか。
取り敢えず、不安に対して不安がると余計に不安になるのみですから、
いっそのこと別のことをして不安を吹き飛ばそう、と。
…まあ、自分は考えるだけで実行できないタイプですが。
では本文。
今日は「日本数学オリンピック(JMO)」の開催日でありまして。
「宝くじも買わねば当たらない」の精神で予選を受けに行きました。
朝食は餅と牛乳とジュースと、砂糖。
…なんとなく、糖分を摂っといたら頭がよく動く気がしたんです。
自分はこういう日に限って睡眠時間が少なく、食欲もなかったんで餅、と。
さて、そんなどうでもいいことはおいときまして。
↑いつもそんなことしかかいてないだろうに。
去年とは違い駅を出てからはすんなり会場を見つけることができました。
…もっと迷うと思ってたんで、時間がかなり余りました(汗)
そして時間も過ぎ試験開始、なんですけど。
…どうしてこういう日に限って腹痛に襲われるのかと。
幸いトイレに立つのは自由なのでさっさと用を足して戻りましたが。
例年と比べてかなり簡単になってました。何があったんだろうかと。
それでも難しいものはやはり難しかったのですが。
個人的にも去年よりは手応えを感じているんですが、
簡単になったってことはつまり合格基準も上がるってことで、やっぱり良くて「B」かと。
その帰り、九州方面に帰省していた友人からお土産をもらいました。
行く前に何かリクエストはないかと訊かれてまして、「際どいものを」と注文したんですが、
…「ゴーヤーのチカラ」っていう、なんか怪しげな飲み物が(汗)
こういうのを待っていたといえば待っていたんですけども。
「ゴーヤー一本分を使用」。約200mlの容器の中にゴーヤ一本。何か凄い。
味はあの、野菜ジュースにゴーヤの汁を混ぜたって感じなんですけど、
その「ゴーヤが混ざった」ってのがかなりキツイもので。
ただ単に「苦い」だけじゃなくて、もう自分の文章力では表せない味でした。
しかしやはり、飲もうとすれば飲みきれる味で。
「良薬口に苦し」なのかどうか。ただ単に食べちゃいけないから苦いんじゃないでしょうかコレ(蹴)
まだ半分くらい残してます。目覚まし代わりになるんじゃないかと思って。
明日からいよいよ平常授業。色々と「覚悟」してかなきゃなりません。
…宿題とか宿題とか、宿題とか(汗)
外に出ると何かあるもんだと思った一日。
では。
自分の考える限りでは、「消す」方法と「上書きする」方法なのですが。
「不安がるべき不安」に対しては前者、
「無駄な不安」に対しては後者をとるべきか、と。
「消す」のは、その通り「不安」となる「原因」を消し去ることで。
例えば単純な例で「録画予約はちゃんとできてるだろうか」という不安があれば、
ただじっと不安がらずにそれを確認すればよい、と。
確認する手段がない状況ではもうすぱっと忘れてみるのも手ですが。
そして、無駄な不安が、何故だか知らないけど湧いて出てくるとき。
過去の失敗への後悔であったり、不安に思ってもしょうがないことだったり。
そういうときは、自分を「不安を考えることすらままならない環境」においてみる。
「精一杯」というか、ずっと集中してなきゃできないようなことをしてみる。
それをしつつも心に若干の余裕があるものでは、不意にそこに不安が湧いてしまう。
つまり、別のことで頭をいっぱいにすることで、不安がらせる要因を思い出させない、と。
そして結構、そういうつまらない不安は一度忘れたら暫く戻ってこないものです。
運動したら気分が爽やかになるというのは、「体の活性化」に加え、そういった効果もあるのでしょうか。
取り敢えず、不安に対して不安がると余計に不安になるのみですから、
いっそのこと別のことをして不安を吹き飛ばそう、と。
…まあ、自分は考えるだけで実行できないタイプですが。
では本文。
今日は「日本数学オリンピック(JMO)」の開催日でありまして。
「宝くじも買わねば当たらない」の精神で予選を受けに行きました。
朝食は餅と牛乳とジュースと、砂糖。
…なんとなく、糖分を摂っといたら頭がよく動く気がしたんです。
自分はこういう日に限って睡眠時間が少なく、食欲もなかったんで餅、と。
さて、そんなどうでもいいことはおいときまして。
↑いつもそんなことしかかいてないだろうに。
去年とは違い駅を出てからはすんなり会場を見つけることができました。
…もっと迷うと思ってたんで、時間がかなり余りました(汗)
そして時間も過ぎ試験開始、なんですけど。
…どうしてこういう日に限って腹痛に襲われるのかと。
幸いトイレに立つのは自由なのでさっさと用を足して戻りましたが。
例年と比べてかなり簡単になってました。何があったんだろうかと。
それでも難しいものはやはり難しかったのですが。
個人的にも去年よりは手応えを感じているんですが、
簡単になったってことはつまり合格基準も上がるってことで、やっぱり良くて「B」かと。
その帰り、九州方面に帰省していた友人からお土産をもらいました。
行く前に何かリクエストはないかと訊かれてまして、「際どいものを」と注文したんですが、
…「ゴーヤーのチカラ」っていう、なんか怪しげな飲み物が(汗)
こういうのを待っていたといえば待っていたんですけども。
「ゴーヤー一本分を使用」。約200mlの容器の中にゴーヤ一本。何か凄い。
味はあの、野菜ジュースにゴーヤの汁を混ぜたって感じなんですけど、
その「ゴーヤが混ざった」ってのがかなりキツイもので。
ただ単に「苦い」だけじゃなくて、もう自分の文章力では表せない味でした。
しかしやはり、飲もうとすれば飲みきれる味で。
「良薬口に苦し」なのかどうか。ただ単に食べちゃいけないから苦いんじゃないでしょうかコレ(蹴)
まだ半分くらい残してます。目覚まし代わりになるんじゃないかと思って。
明日からいよいよ平常授業。色々と「覚悟」してかなきゃなりません。
…宿題とか宿題とか、宿題とか(汗)
外に出ると何かあるもんだと思った一日。
では。
THE LURKER.
2005年1月7日「潜むもの」に注意すべきだと思った今日この頃。
「原因」となる行動を起こしてから「結果」となる事象が成り立つまでの間。
それをとりあえず「潜伏期間」とここでは名付けることにしたのですが。
この「潜伏期間」が長いものには、注意をしなければならないと。
例えば「オゾン層の破壊」等、環境破壊関係の殆どはその「潜伏期間」が長い。
もしその「結果」をみて、「原因」を撤廃したとしても、それから「潜伏期間」の長さだけは被害の進行が続く。
また、「潜伏期間」が長いものは、大概がその「結果」を予測できない。
もし「便利なもの」がそれの「原因」であったならば、人々は「便利」ということを優先させ、
それの内に潜む「危険性」をわざわざ確かめようともしない。
この「潜むもの」、今でも殆ど予測することができないんじゃないか、と。
そして今、個人的に気になる「潜むもの」が、このネット社会の影響。
「子供」は順調に育てば必ず「大人」になるものです。
つまり、「子供」に与えたものというのは、数十年後の「大人」に変化をもたらすワケです。
今は丁度、「電気のある生活」というものを体験した「子供」が「大人」となり、「社会」を動かしている時代にあたりまして。
その「電気のある生活」には「テレビ番組」や「テレビゲーム」なんていう娯楽も含まれるワケです。
子供にそういうものを与えて生活させた、その結果が今の大人の動きとして出ている。
そして、今は「パソコンを与えられた子供」の割合が増えていっているワケでして、
その子供達が今から十数年以上経ち、大人になったときはどうなるのか、と気になるワケです。
何というか、自分の文章力では表しにくいんですが、
子供達に与えられた影響が本当に顕著に表れるのはその子供達が大人になったときだというか。
では本文。
目を覚まして時計を見ると六時でした。
ありがちなオチですが、午後の六時でした。
ずっと寝続けていたわけではありませんが、目を覚ましてもどうも眠たくて。
これが睡眠薬の効果なのか、それとも自分がだらけているせいなのか。半々でしょう。
起きてから暫くは頭がぼやぼやとしてました。
そのうち意識がハッキリしてきても、どうも今日で冬休みが終わりだという感じがしない。
先月辺りからずっとそういった「実感がない」ということをいってる気がしますが、何なんでしょうねコレ。
…自分が現実を見ようとしていないためですか(汗)
さて、現実をぱっと見ると、殆ど手付かずの宿題と、明日から三学期という事実。
とりあえず始業式に出すべき宿題をまとめて、それだけやろうかと思ったんですが。
そのまま現実逃避してました。寧ろ、わかっていながらやっていない状態というか。
自分はどうも、一区切りついたら別のことに目を向けてしまうようで。
「宿題の準備」が「区切り」になっちゃうんです。
今までも何度準備だけしてそのままほったらかしたことか。
なってしまったものはしょうがない、ということでまた明日から頑張ろうとも思うのですが(斬)
勉強するキッカケより、遊ぶキッカケとなることのほうが多過ぎるんです。どうすべきか。
面談で「パソコン、預かろか?」とも言われましたし。
遊ぶキッカケを持たない、かつ勉強するキッカケだけはもつ空間に飛ばされろとでも。
しかし家の中ではそれは不可能なので、やはり性格のほうを変えないとならないようです。
何も進まなかった一日。
では。
「原因」となる行動を起こしてから「結果」となる事象が成り立つまでの間。
それをとりあえず「潜伏期間」とここでは名付けることにしたのですが。
この「潜伏期間」が長いものには、注意をしなければならないと。
例えば「オゾン層の破壊」等、環境破壊関係の殆どはその「潜伏期間」が長い。
もしその「結果」をみて、「原因」を撤廃したとしても、それから「潜伏期間」の長さだけは被害の進行が続く。
また、「潜伏期間」が長いものは、大概がその「結果」を予測できない。
もし「便利なもの」がそれの「原因」であったならば、人々は「便利」ということを優先させ、
それの内に潜む「危険性」をわざわざ確かめようともしない。
この「潜むもの」、今でも殆ど予測することができないんじゃないか、と。
そして今、個人的に気になる「潜むもの」が、このネット社会の影響。
「子供」は順調に育てば必ず「大人」になるものです。
つまり、「子供」に与えたものというのは、数十年後の「大人」に変化をもたらすワケです。
今は丁度、「電気のある生活」というものを体験した「子供」が「大人」となり、「社会」を動かしている時代にあたりまして。
その「電気のある生活」には「テレビ番組」や「テレビゲーム」なんていう娯楽も含まれるワケです。
子供にそういうものを与えて生活させた、その結果が今の大人の動きとして出ている。
そして、今は「パソコンを与えられた子供」の割合が増えていっているワケでして、
その子供達が今から十数年以上経ち、大人になったときはどうなるのか、と気になるワケです。
何というか、自分の文章力では表しにくいんですが、
子供達に与えられた影響が本当に顕著に表れるのはその子供達が大人になったときだというか。
では本文。
目を覚まして時計を見ると六時でした。
ありがちなオチですが、午後の六時でした。
ずっと寝続けていたわけではありませんが、目を覚ましてもどうも眠たくて。
これが睡眠薬の効果なのか、それとも自分がだらけているせいなのか。半々でしょう。
起きてから暫くは頭がぼやぼやとしてました。
そのうち意識がハッキリしてきても、どうも今日で冬休みが終わりだという感じがしない。
先月辺りからずっとそういった「実感がない」ということをいってる気がしますが、何なんでしょうねコレ。
…自分が現実を見ようとしていないためですか(汗)
さて、現実をぱっと見ると、殆ど手付かずの宿題と、明日から三学期という事実。
とりあえず始業式に出すべき宿題をまとめて、それだけやろうかと思ったんですが。
そのまま現実逃避してました。寧ろ、わかっていながらやっていない状態というか。
自分はどうも、一区切りついたら別のことに目を向けてしまうようで。
「宿題の準備」が「区切り」になっちゃうんです。
今までも何度準備だけしてそのままほったらかしたことか。
なってしまったものはしょうがない、ということでまた明日から頑張ろうとも思うのですが(斬)
勉強するキッカケより、遊ぶキッカケとなることのほうが多過ぎるんです。どうすべきか。
面談で「パソコン、預かろか?」とも言われましたし。
遊ぶキッカケを持たない、かつ勉強するキッカケだけはもつ空間に飛ばされろとでも。
しかし家の中ではそれは不可能なので、やはり性格のほうを変えないとならないようです。
何も進まなかった一日。
では。
THE CONDENSER.
2005年1月6日実際に「体感」しないとわからないかと思った今日この頃。
「記号」では表しきれない事柄というものは、実際にそれに触れてみないと習得できないものです。
例えば「発音」というものも、いくら「文字」というものを使ったところで、
それだけを見て正しい「発音」はできない。
「演奏」も、「楽譜」だけでは、全てを正確に読み取ることはできない。
「動作」を「記号」のみでそっくりそのまま表すことはできない。
つまり、そういうときの「記号」はある程度までの指標にしかならない。
知らない人にとっては、何を指すのかすらわからない。
そういったものを習得するためには、少なくとも一度はそれを「体感」し、
「動作」を「動作」としてとらえて理解することが必要かと。
文章であれ、楽譜であれ、「動作」のあるもの、つまりは時間によって移り変わるものを、
時間の存在しない「記号」によって表せる筈がないのでしょうか。
では本文。
冬休み、残り二日。
起きたのは相変わらず昼過ぎ。今日こそは午前中に起きようと思ってたのに。
どうも、自分は眠りが浅いコトが多いようで。
夢をよくみるというのはそれの証拠にはなりませんか。
夢を見るのは浅い眠りのときらしいので。
寝るのが浅くて長く寝なきゃならないというのは何だか無駄な気がします。
夢によって気分が沈むこともしばしばありますし。
どうせなら、深く寝て睡眠時間を短縮し、なおかつ悪い夢をみないようにしたいのですが。
とりあえず、睡眠薬を試してみることにしました。
これで深い眠りにつけるかどうかは知りませんが。
さて、相変わらず「明日から」精神で、宿題をやっていません。
自分は逃げ道が無くなるまで逃げ回るタイプです。
予定では宿題をやる日が四日間あったのに、いつの間にやらあと一日。
しかしここで目標を「一月中」に変えるとまただらけるんで、
目標はあくまで「期日通り」としてできるだけやり、
できなかった分を「一月中」として進めてくべきかな、と。
しかしどうも、冬休みが明日で終わりって感じがしません。
いつもなら、明日で終わりとなるともうちょっと焦ってた気がするんですが。
何でしょう、寝過ぎで現実に対して現実味が持てなくなったか。
実際、ここ三日は「何をしていたのか」と訊かれても答えられませんし。
気付けば三日が経っていたワケです。
宿題以外にも色々とやるべきことはあったんですけども、
何故かそういうことは避けて色々とやっていました。
「やりたいこと」と「やるべきこと」が重ならない。
自分の場合、この「やりたいこと」が少ないんで、重なることなんて滅多にありません。
…そろそろ人間としても駄目になってきたか(汗)
この状況をどうにか打破せねば、と考えるも、考えるだけで終わってしまいます。
何も変わったことはなかった一日。
では。
「記号」では表しきれない事柄というものは、実際にそれに触れてみないと習得できないものです。
例えば「発音」というものも、いくら「文字」というものを使ったところで、
それだけを見て正しい「発音」はできない。
「演奏」も、「楽譜」だけでは、全てを正確に読み取ることはできない。
「動作」を「記号」のみでそっくりそのまま表すことはできない。
つまり、そういうときの「記号」はある程度までの指標にしかならない。
知らない人にとっては、何を指すのかすらわからない。
そういったものを習得するためには、少なくとも一度はそれを「体感」し、
「動作」を「動作」としてとらえて理解することが必要かと。
文章であれ、楽譜であれ、「動作」のあるもの、つまりは時間によって移り変わるものを、
時間の存在しない「記号」によって表せる筈がないのでしょうか。
では本文。
冬休み、残り二日。
起きたのは相変わらず昼過ぎ。今日こそは午前中に起きようと思ってたのに。
どうも、自分は眠りが浅いコトが多いようで。
夢をよくみるというのはそれの証拠にはなりませんか。
夢を見るのは浅い眠りのときらしいので。
寝るのが浅くて長く寝なきゃならないというのは何だか無駄な気がします。
夢によって気分が沈むこともしばしばありますし。
どうせなら、深く寝て睡眠時間を短縮し、なおかつ悪い夢をみないようにしたいのですが。
とりあえず、睡眠薬を試してみることにしました。
これで深い眠りにつけるかどうかは知りませんが。
さて、相変わらず「明日から」精神で、宿題をやっていません。
自分は逃げ道が無くなるまで逃げ回るタイプです。
予定では宿題をやる日が四日間あったのに、いつの間にやらあと一日。
しかしここで目標を「一月中」に変えるとまただらけるんで、
目標はあくまで「期日通り」としてできるだけやり、
できなかった分を「一月中」として進めてくべきかな、と。
しかしどうも、冬休みが明日で終わりって感じがしません。
いつもなら、明日で終わりとなるともうちょっと焦ってた気がするんですが。
何でしょう、寝過ぎで現実に対して現実味が持てなくなったか。
実際、ここ三日は「何をしていたのか」と訊かれても答えられませんし。
気付けば三日が経っていたワケです。
宿題以外にも色々とやるべきことはあったんですけども、
何故かそういうことは避けて色々とやっていました。
「やりたいこと」と「やるべきこと」が重ならない。
自分の場合、この「やりたいこと」が少ないんで、重なることなんて滅多にありません。
…そろそろ人間としても駄目になってきたか(汗)
この状況をどうにか打破せねば、と考えるも、考えるだけで終わってしまいます。
何も変わったことはなかった一日。
では。
THE OVERVIEWER.
2004年12月31日今年一年を振り返ってみる今日この頃。
いや、この日記のことだけですけども。いわば一年間の反省というか。
結局、一ヶ月間ずっと日記をつけつづけられていたのは一月のみ。
二月の後半に三日間の空きを作ってしまい、その後の三月からはほぼ二日に一回程度の割合でしかつけなくなった。
去年なら、「パソコンが壊れてた」と言い訳できたんですけども、
今年はそうはいきません。有効期限が切れちゃってます。
やっぱり、どうも以前の「毎日つけてた」ということに固執して、
日記をつけられなかったあの期間がいわば軽いトラウマになって自分に何かしら影響を及ぼしてるというか。
結局は、その、自分の「切り捨てられない」性格のせいで更なる被害を及ぼしている状態。
そんなワケで、来年は一旦そういうことをスパッと切り離して「新しく続ける」という感じでやれたらいいなあとは思うのですが。
「年」という大きな「区切り」を、どう活かせるか。
では本文。
大晦日。予定では色々と掃除して迎える筈だったんですが。
宿題も、部屋の掃除も、年賀状さえも仕上がってない状態で(汗)
そうなることも予想はしてましたけど。自分のことだから。
外見はなんら変わりなく新年を迎えます。
しかし、「中身」というか、つまり「自分自身」はいくらでも変われるワケです。
…変われなかったからこそこんな状態で大晦日を迎えてるんですけど(汗)
「部屋」などとは違い、「内」で変化を起こすだけで変われるワケですから、
「環境」が変えられなかったのなら「己」を変えるのみ、と。
…いうだけでちっとも実行しないのが自分ですけど。
兎に角、「年が変わる」ということは形式的にみて大きな「区切り」になるわけですから、それに伴って大きく変わってみるべきかな、と。
しかし大きな変化にはそれだけ大きな苦痛が伴うワケで。
先ずはそれに向かうだけの勇気を出せるかってことです。
さて、前がきの延長のような内容は一旦切り捨てまして。
夕方辺りから家族で祖父宅へ行きまして。
どうやら今年は祖父宅で新年を迎えるようです。
ここのパソコンは性能はいいんですがそういうときには不向きな気がします。
やはり慣れたもののほうがいいというかなんというか。
ところで、そうこうしてるうちに東京に行っていた弟が帰ってきまして。
数日前から友達の家へ泊まりに行ってたんです。ハイ。
東京の土産というか余りものがある、と。
よく見かけるペットボトル入り飲料なんですが、何かが違う。
どうやらアメリカ製品らしいです。
向こうの人が来客用に用意したはいいものの、その味のせいで大量に残ったので持ち帰らされたんだとか。
確かになんだか、水にラムネを飽和するくらい溶かしたような味というか、ラムネの味を薄めたというか、奇妙な味でした。
しかし慣れたらまだ大丈夫そうです。そこまでは酷くない味でした。
それからまたそうこうしているうちにもうそろそろ日が変わる、年が変わるという時間になり、今に至る。
年越しそばとか食べてません。そういえば。
それではよいお年を。
あっという間に過ぎた一日。
では。
いや、この日記のことだけですけども。いわば一年間の反省というか。
結局、一ヶ月間ずっと日記をつけつづけられていたのは一月のみ。
二月の後半に三日間の空きを作ってしまい、その後の三月からはほぼ二日に一回程度の割合でしかつけなくなった。
去年なら、「パソコンが壊れてた」と言い訳できたんですけども、
今年はそうはいきません。有効期限が切れちゃってます。
やっぱり、どうも以前の「毎日つけてた」ということに固執して、
日記をつけられなかったあの期間がいわば軽いトラウマになって自分に何かしら影響を及ぼしてるというか。
結局は、その、自分の「切り捨てられない」性格のせいで更なる被害を及ぼしている状態。
そんなワケで、来年は一旦そういうことをスパッと切り離して「新しく続ける」という感じでやれたらいいなあとは思うのですが。
「年」という大きな「区切り」を、どう活かせるか。
では本文。
大晦日。予定では色々と掃除して迎える筈だったんですが。
宿題も、部屋の掃除も、年賀状さえも仕上がってない状態で(汗)
そうなることも予想はしてましたけど。自分のことだから。
外見はなんら変わりなく新年を迎えます。
しかし、「中身」というか、つまり「自分自身」はいくらでも変われるワケです。
…変われなかったからこそこんな状態で大晦日を迎えてるんですけど(汗)
「部屋」などとは違い、「内」で変化を起こすだけで変われるワケですから、
「環境」が変えられなかったのなら「己」を変えるのみ、と。
…いうだけでちっとも実行しないのが自分ですけど。
兎に角、「年が変わる」ということは形式的にみて大きな「区切り」になるわけですから、それに伴って大きく変わってみるべきかな、と。
しかし大きな変化にはそれだけ大きな苦痛が伴うワケで。
先ずはそれに向かうだけの勇気を出せるかってことです。
さて、前がきの延長のような内容は一旦切り捨てまして。
夕方辺りから家族で祖父宅へ行きまして。
どうやら今年は祖父宅で新年を迎えるようです。
ここのパソコンは性能はいいんですがそういうときには不向きな気がします。
やはり慣れたもののほうがいいというかなんというか。
ところで、そうこうしてるうちに東京に行っていた弟が帰ってきまして。
数日前から友達の家へ泊まりに行ってたんです。ハイ。
東京の土産というか余りものがある、と。
よく見かけるペットボトル入り飲料なんですが、何かが違う。
どうやらアメリカ製品らしいです。
向こうの人が来客用に用意したはいいものの、その味のせいで大量に残ったので持ち帰らされたんだとか。
確かになんだか、水にラムネを飽和するくらい溶かしたような味というか、ラムネの味を薄めたというか、奇妙な味でした。
しかし慣れたらまだ大丈夫そうです。そこまでは酷くない味でした。
それからまたそうこうしているうちにもうそろそろ日が変わる、年が変わるという時間になり、今に至る。
年越しそばとか食べてません。そういえば。
それではよいお年を。
あっという間に過ぎた一日。
では。
THE ABOUTER.
2004年12月24日「抽象化」を繰り返すとどうなるかと思った今日この頃。
例えば「オオクワガタ」が「クワガタ」となり、「虫」となり、「生物」となる。
こういう風にある物事に最初より「広い範囲」でみたときにつけられる名称を与えるのが「抽象化」というものです。多分。
「財布を無くした」を「不幸な出来事」といいかえるのも「抽象化」でしょう。
まあ、どんどん「あやふや」になる、「元の事象」が確定できなくなる、と。
さて、「抽象化」にもある程度の限度があるようで。
例のように「虫」を「抽象化」していくとすると、自分は「モノ」までしか「抽象化」できません。
「整関数の微分」に似たようなものです。
「整関数」は「微分」を繰り返すといつか必ず「0」となってそのままかわらなくなります。
さて、そうして「抽象化」したものを逆に「具体化」してみるとどうなるか。
「虫」まで「抽象化」されてしまった「オオクワガタ」を、再び「オオクワガタ」に戻すのはほぼ不可能でしょう。
同じく、「整関数」も一度「積分」すれば、無限といえるだけの「整関数」ができます。
また、「具体化」は、「積分」と同じように何度でもというか、いくらでもすることが可能です。
「オオクワガタ」が、「数年前デパートで買ったオオクワガタ」になり、
「数年前デパートで幼虫を飼って育てた〜」となり。ほぼ無限に。
…ところで、自分は何がかきたかったんでしたっけか(汗)
話が全くまとまらないんで、まあ「抽象化」は程ほどにしておかないと、
伝えたところで相手に勝手に事実とは違う方向へと「具体化」されるかもしれないという危険がある、とでも。
では本文。
教室に入ると、去年の担任の先生がいました。
入る教室を間違えたかとも思ったんですが、確かに自分の入るべき教室でした。
…どうやら担任の先生が入院したらしくて(汗)
補習は予定通りやるらしいんですが、週明けに予定されていた宿題チェックはなし、と。
取り敢えず宿題チェックの件だけは喜んでおきますけど(蹴)
入院の原因に自分との面談でのストレスとかがありそうなんでなんだか罪悪感があるワケで。
「ありそう」というより、「ある」んでしょうけども。
単なる小さな「必要条件」なんでしょうけど、それでもそういうことが集まってそういう結果になったんですし。
…今回はちゃんと宿題こなすんで許してください(汗)
意識はハッキリしてるそうなんですが、やっぱり「わからない」から心配なワケです。
その「心配」と「罪悪感」を糧に宿題をこなせるかと思いつつ帰宅。
しかし結果として今日は宿題は全然進んでないワケで(斬)
先生スイマセン、またいつもの如く宿題できないかもしれません。
↑意見変えるの早すぎ。
やはり眠くてやる気がないからといって睡眠なんかとると余計にやる気がなくなるらしく。
よく考えたら、自分が寝起きから勉強に対するやる気が出ることなんてないんです。
遊びだとかのときはぱっと起きて準備できるんですけども(蹴)
あと、いくら寝るときやる気があろうと、「夢」のせいで気分が沈むこともしばしばです。
見る「夢」を操作できたらなぁ、なんて考えはやはり甘いですか。
予測不可能なことが起こるもんだと思った一日。
では。
例えば「オオクワガタ」が「クワガタ」となり、「虫」となり、「生物」となる。
こういう風にある物事に最初より「広い範囲」でみたときにつけられる名称を与えるのが「抽象化」というものです。多分。
「財布を無くした」を「不幸な出来事」といいかえるのも「抽象化」でしょう。
まあ、どんどん「あやふや」になる、「元の事象」が確定できなくなる、と。
さて、「抽象化」にもある程度の限度があるようで。
例のように「虫」を「抽象化」していくとすると、自分は「モノ」までしか「抽象化」できません。
「整関数の微分」に似たようなものです。
「整関数」は「微分」を繰り返すといつか必ず「0」となってそのままかわらなくなります。
さて、そうして「抽象化」したものを逆に「具体化」してみるとどうなるか。
「虫」まで「抽象化」されてしまった「オオクワガタ」を、再び「オオクワガタ」に戻すのはほぼ不可能でしょう。
同じく、「整関数」も一度「積分」すれば、無限といえるだけの「整関数」ができます。
また、「具体化」は、「積分」と同じように何度でもというか、いくらでもすることが可能です。
「オオクワガタ」が、「数年前デパートで買ったオオクワガタ」になり、
「数年前デパートで幼虫を飼って育てた〜」となり。ほぼ無限に。
…ところで、自分は何がかきたかったんでしたっけか(汗)
話が全くまとまらないんで、まあ「抽象化」は程ほどにしておかないと、
伝えたところで相手に勝手に事実とは違う方向へと「具体化」されるかもしれないという危険がある、とでも。
では本文。
教室に入ると、去年の担任の先生がいました。
入る教室を間違えたかとも思ったんですが、確かに自分の入るべき教室でした。
…どうやら担任の先生が入院したらしくて(汗)
補習は予定通りやるらしいんですが、週明けに予定されていた宿題チェックはなし、と。
取り敢えず宿題チェックの件だけは喜んでおきますけど(蹴)
入院の原因に自分との面談でのストレスとかがありそうなんでなんだか罪悪感があるワケで。
「ありそう」というより、「ある」んでしょうけども。
単なる小さな「必要条件」なんでしょうけど、それでもそういうことが集まってそういう結果になったんですし。
…今回はちゃんと宿題こなすんで許してください(汗)
意識はハッキリしてるそうなんですが、やっぱり「わからない」から心配なワケです。
その「心配」と「罪悪感」を糧に宿題をこなせるかと思いつつ帰宅。
しかし結果として今日は宿題は全然進んでないワケで(斬)
先生スイマセン、またいつもの如く宿題できないかもしれません。
↑意見変えるの早すぎ。
やはり眠くてやる気がないからといって睡眠なんかとると余計にやる気がなくなるらしく。
よく考えたら、自分が寝起きから勉強に対するやる気が出ることなんてないんです。
遊びだとかのときはぱっと起きて準備できるんですけども(蹴)
あと、いくら寝るときやる気があろうと、「夢」のせいで気分が沈むこともしばしばです。
見る「夢」を操作できたらなぁ、なんて考えはやはり甘いですか。
予測不可能なことが起こるもんだと思った一日。
では。
THE DEADLINER.
2004年12月22日「夢」はいつ壊すべきかと思った今日この頃。
今回とりあげる「夢」は、用例を挙げてしか説明できないんですが、
「子供が、サンタはいる、と思うこと」。そのような「夢」です。
勿論、そのような「夢」は全て「虚偽」ともいえる事柄であるため、
いつかは「崩れる」べきものです。それがいつ頃が良いのかと。
個人的には「本人が納得できるような状態になったとき」かと思ったのですが。
「夢」を「信じて」間もない子供に、「現実」を教えても、信じはしません。
また、信じさせたとしても、その子供が受ける衝撃は大きいかと思われます。
だからこそ、敢えて「信じている」間は信じさせ、
その信心がだんだんと薄れてきたときに「現実」を教えるのが良いのかと。
因みに、そうしたいと思ったとして、一番の大敵は何か、と。
それは「現実を知った子供」。彼らは容赦無く「夢」を崩しにかかってくる。
まだ人の心情なんて考えられない。だからこそ最も警戒すべき存在。
元々から「夢」なんて持たせないほうがいいのかも知れません。
しかし、「夢」の素となる情報をたち切ることはほぼ不可能に近い。
だからこそ、「夢」を持った子供への対処というのはなかなか大切だと思ったりもします。
では本文。
補習の後、三者面談がありました。
そろそろ「欠点」が現実味を帯びてきたので、ホントに頑張れ、と。
…次回の化学で八割とか、なんだかほぼ不可能なんですけど(汗)
ところで、通知簿をよく見ると、自分、定期テストは四連続でクラス最下位なんですね。
でも、やはり先生のいう通りに欠点だけ気にしておきましょう。今年は(蹴)
ところで、「普段の睡眠は六時間で十分」というようなことを言われたのですが、
自分六時間じゃ絶対足りないんですて(汗)
八時間寝た日でも授業中眠たくなるというのに。
…体力がないだけですか。そうですか。
ものは試しで、一度六時間睡眠を続けてみようかとも。
数日続けたあとに思いっきり寝る日ができるのがオチでしょうけど。
まず続かないというのもありです(斬)
また、宿題に全く手をつけてないと正直に言い切ってしまったのでどうにかしなければなりません。
もし六時間睡眠でいけるのなら、一日に使える時間が結構増えるんですけども。
増えたところでどうせだらだらと過ごすんだろうなぁと(斬)
さて、家に帰り、なんだか「スターフルーツ」が熟してるようなので食べたのですが。
思ったとおりというか、やはりというか、美味しくない。
ただ、「ドラゴンフルーツ」と違ってそこそこ「味」はある。それが良いのかどうかはわかりません。
これが「スターフルーツ」の最上の味だとしたら、「スターフルーツ」は観賞用にすべきかとも(蹴)
↑お前の口に合わなかっただけだろうが。
まだかなり余ってます。味がそんなのだし、おまけに食べ難いんです。星型で。
やはり「面白いから」という理由でパッと買うと駄目なんでしょうか。
ところで、面談をした後だというのにまだ宿題を始めない自分はいかがなものか(斬)
ついつい「明日から」と思ってしまった一日。
では。
今回とりあげる「夢」は、用例を挙げてしか説明できないんですが、
「子供が、サンタはいる、と思うこと」。そのような「夢」です。
勿論、そのような「夢」は全て「虚偽」ともいえる事柄であるため、
いつかは「崩れる」べきものです。それがいつ頃が良いのかと。
個人的には「本人が納得できるような状態になったとき」かと思ったのですが。
「夢」を「信じて」間もない子供に、「現実」を教えても、信じはしません。
また、信じさせたとしても、その子供が受ける衝撃は大きいかと思われます。
だからこそ、敢えて「信じている」間は信じさせ、
その信心がだんだんと薄れてきたときに「現実」を教えるのが良いのかと。
因みに、そうしたいと思ったとして、一番の大敵は何か、と。
それは「現実を知った子供」。彼らは容赦無く「夢」を崩しにかかってくる。
まだ人の心情なんて考えられない。だからこそ最も警戒すべき存在。
元々から「夢」なんて持たせないほうがいいのかも知れません。
しかし、「夢」の素となる情報をたち切ることはほぼ不可能に近い。
だからこそ、「夢」を持った子供への対処というのはなかなか大切だと思ったりもします。
では本文。
補習の後、三者面談がありました。
そろそろ「欠点」が現実味を帯びてきたので、ホントに頑張れ、と。
…次回の化学で八割とか、なんだかほぼ不可能なんですけど(汗)
ところで、通知簿をよく見ると、自分、定期テストは四連続でクラス最下位なんですね。
でも、やはり先生のいう通りに欠点だけ気にしておきましょう。今年は(蹴)
ところで、「普段の睡眠は六時間で十分」というようなことを言われたのですが、
自分六時間じゃ絶対足りないんですて(汗)
八時間寝た日でも授業中眠たくなるというのに。
…体力がないだけですか。そうですか。
ものは試しで、一度六時間睡眠を続けてみようかとも。
数日続けたあとに思いっきり寝る日ができるのがオチでしょうけど。
まず続かないというのもありです(斬)
また、宿題に全く手をつけてないと正直に言い切ってしまったのでどうにかしなければなりません。
もし六時間睡眠でいけるのなら、一日に使える時間が結構増えるんですけども。
増えたところでどうせだらだらと過ごすんだろうなぁと(斬)
さて、家に帰り、なんだか「スターフルーツ」が熟してるようなので食べたのですが。
思ったとおりというか、やはりというか、美味しくない。
ただ、「ドラゴンフルーツ」と違ってそこそこ「味」はある。それが良いのかどうかはわかりません。
これが「スターフルーツ」の最上の味だとしたら、「スターフルーツ」は観賞用にすべきかとも(蹴)
↑お前の口に合わなかっただけだろうが。
まだかなり余ってます。味がそんなのだし、おまけに食べ難いんです。星型で。
やはり「面白いから」という理由でパッと買うと駄目なんでしょうか。
ところで、面談をした後だというのにまだ宿題を始めない自分はいかがなものか(斬)
ついつい「明日から」と思ってしまった一日。
では。
THE MOODER.
2004年12月20日「雰囲気」は大切かと思った今日この頃。
「雰囲気」というものは、人の心に変化を与え、その人の行動すら変えることができるもので。
例えばいくらパーティーで美味しいものがあったところで、皆が黙々と食べているだけではつまらなく、
結果としてワイワイと騒ぎながら食べるよりも「味」は劣ります。
そういったように、「雰囲気」というものは色々な面で人を「変える」ことができます。
また、その「雰囲気」は人工的に作り出せるものでもあります。
その場その場に相応しい「雰囲気」を作り出すことで、人間の感情の起伏は増幅するワケです。
勿論それを利用し、「映画」等でも「音楽」を用いて感情を増幅させているワケですが、
その「感情の増幅」の効果のみで絶大な支持などを受けるのはどうかなぁ、と。
「つまらない」ものを、「雰囲気」だけで「良い」と思わせる。
「楽しむためだけのもの」においてはそれはいいと思うんですが、
「評価させるべきもの」においては、そういうのは「評価を曲げる」行為で、あまり良いとはいえないなぁ、と。
まあ、受け手からすれば「楽しめれば良い」のですけど。
では本文。
終業式。しかし何故かその後模試の過去問をやらされる。
帰宅してから昼寝をすると、いつのまにかピアノ教室に行く時間の三十分前に。
大変だと思って急いで練習をして出て行く。
終了後、母とともに弁天町へと向かう。
「杉山清貴 THE HOLY NIGHT SESSIONS」というものに付き合わされたワケです。
付き合わされたというか、ちょっと興味があるからついていったというか。
母のお気に入りらしく、家や車ではよくこの人の歌がかけられてまして。
所謂「スリコミ」ってやつかもしれませんが、現代の歌に負けず劣らずの良いものかと思いまして。
…自分が最近の曲を毛嫌いしてるだけですか。そうですか。
しかし、その、歌モノとして非常に重要である「声」が良いんですよ、この人。
そして曲のほうもその「声」を活かせてるってものが多くてですね。
何というか、最近でしゃばってるようなグループよりは「光るもの」があるように感じるんです。
…いや、母からの「スリコミ」だといわれればそこまでなんですけど(汗)
さて、イベントの内容はライブというかディナーショーというかというもので。
今月始めに行った「コンサート」とはまた全く違った雰囲気でありました。
やはりその場で演奏してるという「臨場感」というんですか、
あれはやはりいくら環境を整えたところでCDなどを再生しようと味わえないものかと。
勿論のことアンコールもあり、なかなか楽しみました。
しかし帰ったら日が変わりかけてたってのには驚きました。
ところで明日からも登校しなければならないみたいなんですが、いつ登校すればいいのかを知りません。どうしたものか。
宿題の量をみると途端に後ろ向きになることに気付いた一日。
では。
「雰囲気」というものは、人の心に変化を与え、その人の行動すら変えることができるもので。
例えばいくらパーティーで美味しいものがあったところで、皆が黙々と食べているだけではつまらなく、
結果としてワイワイと騒ぎながら食べるよりも「味」は劣ります。
そういったように、「雰囲気」というものは色々な面で人を「変える」ことができます。
また、その「雰囲気」は人工的に作り出せるものでもあります。
その場その場に相応しい「雰囲気」を作り出すことで、人間の感情の起伏は増幅するワケです。
勿論それを利用し、「映画」等でも「音楽」を用いて感情を増幅させているワケですが、
その「感情の増幅」の効果のみで絶大な支持などを受けるのはどうかなぁ、と。
「つまらない」ものを、「雰囲気」だけで「良い」と思わせる。
「楽しむためだけのもの」においてはそれはいいと思うんですが、
「評価させるべきもの」においては、そういうのは「評価を曲げる」行為で、あまり良いとはいえないなぁ、と。
まあ、受け手からすれば「楽しめれば良い」のですけど。
では本文。
終業式。しかし何故かその後模試の過去問をやらされる。
帰宅してから昼寝をすると、いつのまにかピアノ教室に行く時間の三十分前に。
大変だと思って急いで練習をして出て行く。
終了後、母とともに弁天町へと向かう。
「杉山清貴 THE HOLY NIGHT SESSIONS」というものに付き合わされたワケです。
付き合わされたというか、ちょっと興味があるからついていったというか。
母のお気に入りらしく、家や車ではよくこの人の歌がかけられてまして。
所謂「スリコミ」ってやつかもしれませんが、現代の歌に負けず劣らずの良いものかと思いまして。
…自分が最近の曲を毛嫌いしてるだけですか。そうですか。
しかし、その、歌モノとして非常に重要である「声」が良いんですよ、この人。
そして曲のほうもその「声」を活かせてるってものが多くてですね。
何というか、最近でしゃばってるようなグループよりは「光るもの」があるように感じるんです。
…いや、母からの「スリコミ」だといわれればそこまでなんですけど(汗)
さて、イベントの内容はライブというかディナーショーというかというもので。
今月始めに行った「コンサート」とはまた全く違った雰囲気でありました。
やはりその場で演奏してるという「臨場感」というんですか、
あれはやはりいくら環境を整えたところでCDなどを再生しようと味わえないものかと。
勿論のことアンコールもあり、なかなか楽しみました。
しかし帰ったら日が変わりかけてたってのには驚きました。
ところで明日からも登校しなければならないみたいなんですが、いつ登校すればいいのかを知りません。どうしたものか。
宿題の量をみると途端に後ろ向きになることに気付いた一日。
では。
THE MINDER.
2004年12月14日「結果」はどうであれ、「心」を「正」に保つのが大切かと思った今日この頃。
例えば、「成功するか失敗するかの瀬戸際の事象」があるとする。
ここで、「成功する」と思うか、「失敗する」と思うか、これは大事なことです。
どうなろうと成功、または失敗するものはどっちでも変わりありません。
しかし「心持ちに左右されるとき」は、やはり「成功する」と思っていなくては成功しません。
「どうなろうと成功・失敗するもの」か「心持ちに左右されるもの」かは、
わかるようでわからないものです。だからこそ、いつでも「前向き」でいたほうが良い、と。
しかし、結構その「結果」までに「間」があるものは、そうともいえなかったりも。
「成功する」と思い込み、浮かれて失敗することもあれば、
「失敗する」と思い、どこがその「失敗」に繋がるかを考え修正することで「成功」へと繋がったり。
適度な「緊張感」を持ちつつ、かつ「前向き」であれば大丈夫ですけども。
では本文。
友達とカラオケ行ってきました。修学旅行前日ですけど。
なんだかこの前と違う機種というか選曲システムになったようで。
「DIVE TO THE NIGHT」と「true...」があったんですかさず選んだんですけども。
…「聴く」と「歌う」は違うってことがよく理解できました(汗)
前者なんて最初に選んだせいか何が何やら、と。
自分はカラオケなんてこうして数ヶ月に一度しか行きませんから、
毎回毎回、数曲歌うまでは「歌う」ってことに慣れられないワケで。
慣れもしないうちからそうして選んだことのない曲を選んだのは失敗だと。
…いや、あの曲はいつ選んだとしても失敗ですけど(汗)
修学旅行の準備等のことを考えて、いつもより早めにやめるつもりだったらしいんですが、結局いつもと同じ位の時間に。
帰り道、友達との話題はほぼ「携帯電話を如何にして持って行くか」だったワケで。
飛行機を利用するため、そこでのチェックは避けられない。
そこをどうしてくぐり抜けるか、ということでした。
身につけていると金属探知機に引っかかり、かといってバッグに入れるとモニターに映る形でバレる、と。
「先生がモニターを見ないように気を引く」だとか、色々な案が出て。
自分は持って行かない、というか携帯電話を持ってすらいないんですが、一つ思いつきました。
メガネ入れ等、携帯が入る程度の小さい箱に携帯を入れる。
また、引っ掛かりそうな金属製のものを用意し、双方ともポケットに入れておく。
当然のことながら検査に引っ掛かり、まずは箱を取り出す。
そして再び引っ掛かり、残りの金属製のものを出して通り抜ける。
こういった手順でいけば、抜けられるんじゃないかと。
メガネ入れとかならポケットに入れていてもそこまで怪しまれませんし。
ただ、「中身」まで確認されると駄目だというのが難所。どうなんでしょうかね。
しかしこうして色々と考えたところで、実際はどうなるのかわかりません。
先生も極力見過ごすようにしようとするほどチェックが甘いかもしれませんし。
そこまで悩んで工夫するのがとりこし苦労に終わることもあるでしょう。
でも考えるのは楽しかったんでよしとします。
帰ってからは明日の用意をし、早めに寝ようかと思ったんですが既に夜遅くとなっております。
楽しく、事故のない修学旅行になることを期待します。
「事故」、あるとしたら「まき込まれる」ものでなく「起こす」ものになると思いますけど(汗)
明日から修学旅行ということさえ実感がわかなかった一日。
では。
例えば、「成功するか失敗するかの瀬戸際の事象」があるとする。
ここで、「成功する」と思うか、「失敗する」と思うか、これは大事なことです。
どうなろうと成功、または失敗するものはどっちでも変わりありません。
しかし「心持ちに左右されるとき」は、やはり「成功する」と思っていなくては成功しません。
「どうなろうと成功・失敗するもの」か「心持ちに左右されるもの」かは、
わかるようでわからないものです。だからこそ、いつでも「前向き」でいたほうが良い、と。
しかし、結構その「結果」までに「間」があるものは、そうともいえなかったりも。
「成功する」と思い込み、浮かれて失敗することもあれば、
「失敗する」と思い、どこがその「失敗」に繋がるかを考え修正することで「成功」へと繋がったり。
適度な「緊張感」を持ちつつ、かつ「前向き」であれば大丈夫ですけども。
では本文。
友達とカラオケ行ってきました。修学旅行前日ですけど。
なんだかこの前と違う機種というか選曲システムになったようで。
「DIVE TO THE NIGHT」と「true...」があったんですかさず選んだんですけども。
…「聴く」と「歌う」は違うってことがよく理解できました(汗)
前者なんて最初に選んだせいか何が何やら、と。
自分はカラオケなんてこうして数ヶ月に一度しか行きませんから、
毎回毎回、数曲歌うまでは「歌う」ってことに慣れられないワケで。
慣れもしないうちからそうして選んだことのない曲を選んだのは失敗だと。
…いや、あの曲はいつ選んだとしても失敗ですけど(汗)
修学旅行の準備等のことを考えて、いつもより早めにやめるつもりだったらしいんですが、結局いつもと同じ位の時間に。
帰り道、友達との話題はほぼ「携帯電話を如何にして持って行くか」だったワケで。
飛行機を利用するため、そこでのチェックは避けられない。
そこをどうしてくぐり抜けるか、ということでした。
身につけていると金属探知機に引っかかり、かといってバッグに入れるとモニターに映る形でバレる、と。
「先生がモニターを見ないように気を引く」だとか、色々な案が出て。
自分は持って行かない、というか携帯電話を持ってすらいないんですが、一つ思いつきました。
メガネ入れ等、携帯が入る程度の小さい箱に携帯を入れる。
また、引っ掛かりそうな金属製のものを用意し、双方ともポケットに入れておく。
当然のことながら検査に引っ掛かり、まずは箱を取り出す。
そして再び引っ掛かり、残りの金属製のものを出して通り抜ける。
こういった手順でいけば、抜けられるんじゃないかと。
メガネ入れとかならポケットに入れていてもそこまで怪しまれませんし。
ただ、「中身」まで確認されると駄目だというのが難所。どうなんでしょうかね。
しかしこうして色々と考えたところで、実際はどうなるのかわかりません。
先生も極力見過ごすようにしようとするほどチェックが甘いかもしれませんし。
そこまで悩んで工夫するのがとりこし苦労に終わることもあるでしょう。
でも考えるのは楽しかったんでよしとします。
帰ってからは明日の用意をし、早めに寝ようかと思ったんですが既に夜遅くとなっております。
楽しく、事故のない修学旅行になることを期待します。
「事故」、あるとしたら「まき込まれる」ものでなく「起こす」ものになると思いますけど(汗)
明日から修学旅行ということさえ実感がわかなかった一日。
では。
THE IMPULSER.
2004年12月7日「本能」とはどういったことかと思った今日この頃。
「他者を排除することは生き物の本能か」、そんな問いかけを漫画等でたまに見かける気がします。
それはある意味ではそうだといえ、ある意味ではそうではないといえます。
文章が簡潔であるため、何を「省略」しているかによって「結論」が変わるワケです。
殺人鬼のようなキャラがこのような台詞を使っていた場合、「そうではない」といえます。
それはつまり「人を殺すことは本能的な行動か」という問いとなり、否といえるワケです。
ライオンが捕食のためにシマウマを狩ったり、メスを得るために他のオスを殺したりするのとは違い、
なんの意味もなく、ただ本人が「そうしたいから」という理由で人を殺していく。
それは生物にある「本能」ではなく、ただの個人的な「欲望」または「衝動」です。
「それをしたくなる」というのは、「本能」だけに限ることではありません。
確かに「本能」は、放っておいても何故かそうしたくなる、そういうものです。
しかし、ただ単に「そうしたい」というだけでは、それが「本能」とはいえず、寧ろ単なる「欲望」だといえるワケです。
「本能」は即ち「自然とその欲が出てくるもの」といえますが、やはりその逆が必ず成り立つとはいえないワケです。
「本能」がどうこうというより、「本能」と「欲望」の境目の話になっちゃいましたけども。
ただ、「本能」を言い訳に自分の行動を「正当化」しようとするのはどうかと。
「理性」や「経験」により変化した「本能」なんてものも有り得るんでしょうか。
では本文。
特に何もなかったので、とっとと試験の感想なんてものを。
一時限目:古典:(常)
いつも通り、よくわかりません(蹴)
単語なんて英単語だけで精一杯ですってば(斬)
古文より漢文のほうがとっつき易いような気がするのは自分だけですか。
漢字が微妙に好きなんで、それが並ぶ漢文はなんだか見てて小気味がいいというかなんと言うか。
二時限目:数学:(沈)
今まで数学にいい評価を下したことって無いような気も。
積分、所々苦手なんですよコレ。問題の形式が多様過ぎで。
小問集合からして躓きましたし、後半も「コレがきたか」と予想外のものがきて解けずにボロボロで。
苦手であることさえ認知してない、「本当に苦手」なものがくるとキツイです。
全体としての難易度はそこそこ易しかったんじゃないかと思える辺り、
できなかったことがより悔しかったりも。
前回みたいな実力で挑む難問は一問もありませんでしたし。
また、宿題が今日までに出しきれなかったのでまた減点をくらうでしょう。
帰宅後、眠たいので久々に昼寝をしました。
テストが始まってから何度か昼寝をしたいとは思ったんですが、
帰る頃には目が覚めていたり、外出することになったりと今日までできませんで。
しかし、一度起きて寝ると、一日が過ぎたような感覚がして、
「今日期末テストだったんだっけ」と今日の出来事への現実味が薄れるというか何というか。
テストに現実味が持てないというのはいつものことかもしれませんけども(蹴)
明日もテストだという感覚なんて全くありません(斬)
寧ろそういう感覚があったら気分が悪いため即抹消するんでしょうか。
自分の性格からして、一種の「現実逃避」なんでしょうけど。
どうも「休日」だといった印象を持ってしまう一日。
では。
「他者を排除することは生き物の本能か」、そんな問いかけを漫画等でたまに見かける気がします。
それはある意味ではそうだといえ、ある意味ではそうではないといえます。
文章が簡潔であるため、何を「省略」しているかによって「結論」が変わるワケです。
殺人鬼のようなキャラがこのような台詞を使っていた場合、「そうではない」といえます。
それはつまり「人を殺すことは本能的な行動か」という問いとなり、否といえるワケです。
ライオンが捕食のためにシマウマを狩ったり、メスを得るために他のオスを殺したりするのとは違い、
なんの意味もなく、ただ本人が「そうしたいから」という理由で人を殺していく。
それは生物にある「本能」ではなく、ただの個人的な「欲望」または「衝動」です。
「それをしたくなる」というのは、「本能」だけに限ることではありません。
確かに「本能」は、放っておいても何故かそうしたくなる、そういうものです。
しかし、ただ単に「そうしたい」というだけでは、それが「本能」とはいえず、寧ろ単なる「欲望」だといえるワケです。
「本能」は即ち「自然とその欲が出てくるもの」といえますが、やはりその逆が必ず成り立つとはいえないワケです。
「本能」がどうこうというより、「本能」と「欲望」の境目の話になっちゃいましたけども。
ただ、「本能」を言い訳に自分の行動を「正当化」しようとするのはどうかと。
「理性」や「経験」により変化した「本能」なんてものも有り得るんでしょうか。
では本文。
特に何もなかったので、とっとと試験の感想なんてものを。
一時限目:古典:(常)
いつも通り、よくわかりません(蹴)
単語なんて英単語だけで精一杯ですってば(斬)
古文より漢文のほうがとっつき易いような気がするのは自分だけですか。
漢字が微妙に好きなんで、それが並ぶ漢文はなんだか見てて小気味がいいというかなんと言うか。
二時限目:数学:(沈)
今まで数学にいい評価を下したことって無いような気も。
積分、所々苦手なんですよコレ。問題の形式が多様過ぎで。
小問集合からして躓きましたし、後半も「コレがきたか」と予想外のものがきて解けずにボロボロで。
苦手であることさえ認知してない、「本当に苦手」なものがくるとキツイです。
全体としての難易度はそこそこ易しかったんじゃないかと思える辺り、
できなかったことがより悔しかったりも。
前回みたいな実力で挑む難問は一問もありませんでしたし。
また、宿題が今日までに出しきれなかったのでまた減点をくらうでしょう。
帰宅後、眠たいので久々に昼寝をしました。
テストが始まってから何度か昼寝をしたいとは思ったんですが、
帰る頃には目が覚めていたり、外出することになったりと今日までできませんで。
しかし、一度起きて寝ると、一日が過ぎたような感覚がして、
「今日期末テストだったんだっけ」と今日の出来事への現実味が薄れるというか何というか。
テストに現実味が持てないというのはいつものことかもしれませんけども(蹴)
明日もテストだという感覚なんて全くありません(斬)
寧ろそういう感覚があったら気分が悪いため即抹消するんでしょうか。
自分の性格からして、一種の「現実逃避」なんでしょうけど。
どうも「休日」だといった印象を持ってしまう一日。
では。
THE SUPPLIER.
2004年12月6日「西」は「左」といってよいのかと考えた今日この頃。
確かに、地図なんかで「北」を「上」にしてみれば「西」は「左」となるのですが。
ここでは「左」という言葉の原義を考えてみよう、と。
「左」、つまり「ひだり」ってのは、「日垂れ」、つまり日が落ちる方向を指すものとしてでき、それが訛ったものといわれています。
ちなみに「右」は「水際」から変化したものだそうです。
そしてここで、その「日の落ちる方向」というものは方角でいえばどちらにあたるかと。
勿論のこと、太陽は東から昇って西へと落ちます。
つまり、「左」というものは元々の意味を考えれば「西」を指すワケで。
意味上からいけば、「左」は「西」だといっても構わないものかと。
ただ、道を歩いてるときだとか、北を「上」にして地図を見ていないときだとか、
そういう場合には「左」が「西」だとはいえないので注意するべきですか。
では本文。
朝起きて、昨日使った鞄から生徒手帳を取り出そうと探る。
今日のテスト科目はなんだったかな、と思いまして。
…見当たらない(汗)
自分が思いつく限りの場所には見当たりませんで。
こういったとき、人間はいろいろなケースを想像して不安になります。
まさか出かけたときに落としたのではないか、とか。
生徒手帳に定期も入れてまして、見つからないんで父から回数券を借りることに。
しかしどこいっちゃったんだろうかと。
一時限目:保健:(良)
学校につき、そういや今日は保健か、と気付きまして。
しかし、科目がわからなかったので教材なんか持ってきてませんで。
それにしてはよくできたかな、ということです。
この評価は「絶対的」でなく「相対的」なものでして。
二時限目:物理:(高)
「波」の分野は結構得意だったりします。
公式とか覚えずとも見た目で解けるものが結構あるので(斬)
今までの散々なのに比べたら点数高いかな、と。
テストより生徒手帳のことを気にしつつ帰宅しまして。
どこいったんかな、とか思いつつ服を脱いでいつもの場所へと置く。
…あ、あった(汗)
服が重なっているとこの下に生徒手帳がありました。あっけない。
しかし、ホントに探しものって意外なとこにあるんですね。いつ置いたんだろうかと。
見つかったということでめでたしめでたし、ですかね。
↑先ずなくしたことがめでたくない。
それからなんやかんやとしていると、父がピザなんかを買って帰ってきまして。
片方がチーズピザだったんです。美味しかったんですけども。
…ブルーチーズの青カビだけはどうかと(汗)
食べたとたん、下に刺激が。そして至極濃厚なチーズのような味が。
もごもごするとジャリってなって、より一層味が広まって(汗)
なんなんでしょう。アレは。苦いでもなく、辛いわけでもないんですけど。
慣れたらそこまで辛くもないものなんでしょうけど。危ない食べ物です。
久々に「未知の世界」を体験した一日。
では。
確かに、地図なんかで「北」を「上」にしてみれば「西」は「左」となるのですが。
ここでは「左」という言葉の原義を考えてみよう、と。
「左」、つまり「ひだり」ってのは、「日垂れ」、つまり日が落ちる方向を指すものとしてでき、それが訛ったものといわれています。
ちなみに「右」は「水際」から変化したものだそうです。
そしてここで、その「日の落ちる方向」というものは方角でいえばどちらにあたるかと。
勿論のこと、太陽は東から昇って西へと落ちます。
つまり、「左」というものは元々の意味を考えれば「西」を指すワケで。
意味上からいけば、「左」は「西」だといっても構わないものかと。
ただ、道を歩いてるときだとか、北を「上」にして地図を見ていないときだとか、
そういう場合には「左」が「西」だとはいえないので注意するべきですか。
では本文。
朝起きて、昨日使った鞄から生徒手帳を取り出そうと探る。
今日のテスト科目はなんだったかな、と思いまして。
…見当たらない(汗)
自分が思いつく限りの場所には見当たりませんで。
こういったとき、人間はいろいろなケースを想像して不安になります。
まさか出かけたときに落としたのではないか、とか。
生徒手帳に定期も入れてまして、見つからないんで父から回数券を借りることに。
しかしどこいっちゃったんだろうかと。
一時限目:保健:(良)
学校につき、そういや今日は保健か、と気付きまして。
しかし、科目がわからなかったので教材なんか持ってきてませんで。
それにしてはよくできたかな、ということです。
この評価は「絶対的」でなく「相対的」なものでして。
二時限目:物理:(高)
「波」の分野は結構得意だったりします。
公式とか覚えずとも見た目で解けるものが結構あるので(斬)
今までの散々なのに比べたら点数高いかな、と。
テストより生徒手帳のことを気にしつつ帰宅しまして。
どこいったんかな、とか思いつつ服を脱いでいつもの場所へと置く。
…あ、あった(汗)
服が重なっているとこの下に生徒手帳がありました。あっけない。
しかし、ホントに探しものって意外なとこにあるんですね。いつ置いたんだろうかと。
見つかったということでめでたしめでたし、ですかね。
↑先ずなくしたことがめでたくない。
それからなんやかんやとしていると、父がピザなんかを買って帰ってきまして。
片方がチーズピザだったんです。美味しかったんですけども。
…ブルーチーズの青カビだけはどうかと(汗)
食べたとたん、下に刺激が。そして至極濃厚なチーズのような味が。
もごもごするとジャリってなって、より一層味が広まって(汗)
なんなんでしょう。アレは。苦いでもなく、辛いわけでもないんですけど。
慣れたらそこまで辛くもないものなんでしょうけど。危ない食べ物です。
久々に「未知の世界」を体験した一日。
では。
THE DIVINER.
2004年12月5日「占い」に信憑性はあるかと思った今日この頃。
個人的に「占い」は全く信じないんですけども。
先ず、「抽象的なこと」を並べるという手法。
極端にいけば「昨日何か悪いことがあったでしょう」とか。
そりゃ、丸々一日悪いことなしに過ごせる人なんていないでしょう。
いたとしても、その一言で、「何かが悪かったのではないか」と思い、
何かしら「昨日の悪いこと」だけを思い出させてしまう、と。
そのような、必ず当たるような「抽象的」なことを並べて信用させる。
過去であれ未来であれ、そういったものは必ずといっていいほど「当たる」んです。
あと、マジックの手法でもあるじゃないですか、「引いたカードを当てる」のでなく、「特定のカードを引かせる」というタネ。
そのような感じで、「信じさせる」ことで「特定の未来」へと導く占いというものもあるんです。
「この日はこうすると幸せになれますよ」と言われ、そうしてみる。
信じていれば、そうすることで、大きな不幸がなければなんとなく幸せに感じる。つまり占いは当たっていた、と。
つまり、なんというか、インチキくさいんですよ。自分の知る限りの「占い」って。
まあ、占いも、良い結果のものだけ信じていれば「幸せ」に生きていけるでしょうけども。
わからない未来を知らせてくれるもの、だから人々は占いに興味を持つのでしょうか。
実際、そこにかいてあることは単なるデタラメであるのに。
「答え」がその時点ではないということを利用したトリックですよ。
「答え」が未知である場合、人々は「もっともらしい仮説」を信用するんです。
では本文。
試験の合間の休みですけども。
特にそのために特別なことをしたりはしませんでした(蹴)
夕方からちょっと用事があって外出してたことくらいでしょうか。
帰ってくると「担任の先生から電話があった」とのこと。
時期が時期だけに一体何があったんだと焦ったんですけど、
詰まるところ単に「お歳暮のお礼」の電話らしくて。
そういえば以前にもお中元のお礼の電話がかかってきたと言ってました。
しかしいつの間にお歳暮なんて贈ったんで(何)
ところで、お礼の電話ついでに色々と自分のことについて話されたらしくて。
小テストも頑張ってきてるようで、期末テストにも期待しています、だとかなんだとか。
…スイマセン、既に五教科は期待にそえるどころか大変な結果になってます(汗)
そんな電話がかかってきてもやっぱり机に向かう気になれない自分でした(斬)
いまだに試験中という実感を感じ取れていなかった一日。
では。
個人的に「占い」は全く信じないんですけども。
先ず、「抽象的なこと」を並べるという手法。
極端にいけば「昨日何か悪いことがあったでしょう」とか。
そりゃ、丸々一日悪いことなしに過ごせる人なんていないでしょう。
いたとしても、その一言で、「何かが悪かったのではないか」と思い、
何かしら「昨日の悪いこと」だけを思い出させてしまう、と。
そのような、必ず当たるような「抽象的」なことを並べて信用させる。
過去であれ未来であれ、そういったものは必ずといっていいほど「当たる」んです。
あと、マジックの手法でもあるじゃないですか、「引いたカードを当てる」のでなく、「特定のカードを引かせる」というタネ。
そのような感じで、「信じさせる」ことで「特定の未来」へと導く占いというものもあるんです。
「この日はこうすると幸せになれますよ」と言われ、そうしてみる。
信じていれば、そうすることで、大きな不幸がなければなんとなく幸せに感じる。つまり占いは当たっていた、と。
つまり、なんというか、インチキくさいんですよ。自分の知る限りの「占い」って。
まあ、占いも、良い結果のものだけ信じていれば「幸せ」に生きていけるでしょうけども。
わからない未来を知らせてくれるもの、だから人々は占いに興味を持つのでしょうか。
実際、そこにかいてあることは単なるデタラメであるのに。
「答え」がその時点ではないということを利用したトリックですよ。
「答え」が未知である場合、人々は「もっともらしい仮説」を信用するんです。
では本文。
試験の合間の休みですけども。
特にそのために特別なことをしたりはしませんでした(蹴)
夕方からちょっと用事があって外出してたことくらいでしょうか。
帰ってくると「担任の先生から電話があった」とのこと。
時期が時期だけに一体何があったんだと焦ったんですけど、
詰まるところ単に「お歳暮のお礼」の電話らしくて。
そういえば以前にもお中元のお礼の電話がかかってきたと言ってました。
しかしいつの間にお歳暮なんて贈ったんで(何)
ところで、お礼の電話ついでに色々と自分のことについて話されたらしくて。
小テストも頑張ってきてるようで、期末テストにも期待しています、だとかなんだとか。
…スイマセン、既に五教科は期待にそえるどころか大変な結果になってます(汗)
そんな電話がかかってきてもやっぱり机に向かう気になれない自分でした(斬)
いまだに試験中という実感を感じ取れていなかった一日。
では。
THE SECRETTER.
2004年12月4日「秘密」とは何かと思った今日この頃。
「秘密」ってのは、ある事を隠す場合に使われたりする言葉ですが。
「秘密」であることすら「秘密」、これはどうなるか、と。
つまりは「秘密」があるということすら知られてはならない。
つまりそのことを疑問に思わせることすらしてはならない。
疑問をもてば「秘密」であることに対しての質問を投げかけてくるかもしれない。
そこを問われると「秘密」が「秘密」であることをいうか、「嘘をつく」かでしか回避できない。
後者でうまく回避できればいいものの、それが無理になれば、
「秘密」であることすら「秘密」ということは破られる。
つまりそのことに関しては何も伝えてはならない。
それが「秘密があることすら秘密」ということで。
これ以上「秘密」を繋げてもそれに帰着するかな、と。
つまり「秘密」の重複使用が意味をなすのは二重まで、と(何)
では本文。
テスト二日目。相変わらず実感はありません(蹴)
一時限目:現国:(中)
授業内容を問われるところはほぼできてません。
しかし、「常用漢字の訓読み」やら実力問題はそこそこできたので良しと。
パソコンでも変換できないような訓読み、なかなか面白いものです。
二時限目:英W:(下)
英単語、英熟語、構文、全部自分の弱いところなんですけど。
↑素直に暗記系が嫌いだといえ。
どうしてそうして偏って分けられるかな、とも思ったり。
↑おまえが偏ってるだけだ。
多分分けたほうがどちらがどう苦手かがより鮮明になるためなんでしょうけど。
今日は直接家には帰らず、途中下車して母と会い、美術館に行きました。
そこでやっている書道展にある、妹の書いた作品を見に行く、と。
中学生になるまでは自分も毎年書かされてたもんですけども。
さて、自分がその同行に了解したのには何かしらワケがありまして。
他人様からみればほんのつまらない理由なのでしょうけど、
自分でも何故だか知らないくらい、そういうことにひかれるんです。
「塩川元財務大臣」、通称「塩じい」がいらっしゃるんだとか。
一昔前に政界で結構「有名」になった人なんですけども。
間近でみると、やはり「元財務大臣」というよりは「塩じい」という名が似合いそうな人で。
でもやっぱり、そういう場面になるとその能力を発揮するんだろうなぁ、と。
「偉い人」も、日常の中では「ただの人」、そんな言葉を思い出して和んでおりました。
「いい体験をした」と思いつつ帰宅、そしてやはりだらだらゴロゴロ。
明日は日曜日なんで試験を気にせずともいいのです。
いつも気にしてないじゃないかといわれたらそれまでですが、
やはり「明日は休みだ」と「明日も試験だ」では、心の中で何かが違うのです。
そしてそのためよりゆったりできるというかなんというか。
些細なことで「満足」した一日。
では。
「秘密」ってのは、ある事を隠す場合に使われたりする言葉ですが。
「秘密」であることすら「秘密」、これはどうなるか、と。
つまりは「秘密」があるということすら知られてはならない。
つまりそのことを疑問に思わせることすらしてはならない。
疑問をもてば「秘密」であることに対しての質問を投げかけてくるかもしれない。
そこを問われると「秘密」が「秘密」であることをいうか、「嘘をつく」かでしか回避できない。
後者でうまく回避できればいいものの、それが無理になれば、
「秘密」であることすら「秘密」ということは破られる。
つまりそのことに関しては何も伝えてはならない。
それが「秘密があることすら秘密」ということで。
これ以上「秘密」を繋げてもそれに帰着するかな、と。
つまり「秘密」の重複使用が意味をなすのは二重まで、と(何)
では本文。
テスト二日目。相変わらず実感はありません(蹴)
一時限目:現国:(中)
授業内容を問われるところはほぼできてません。
しかし、「常用漢字の訓読み」やら実力問題はそこそこできたので良しと。
パソコンでも変換できないような訓読み、なかなか面白いものです。
二時限目:英W:(下)
英単語、英熟語、構文、全部自分の弱いところなんですけど。
↑素直に暗記系が嫌いだといえ。
どうしてそうして偏って分けられるかな、とも思ったり。
↑おまえが偏ってるだけだ。
多分分けたほうがどちらがどう苦手かがより鮮明になるためなんでしょうけど。
今日は直接家には帰らず、途中下車して母と会い、美術館に行きました。
そこでやっている書道展にある、妹の書いた作品を見に行く、と。
中学生になるまでは自分も毎年書かされてたもんですけども。
さて、自分がその同行に了解したのには何かしらワケがありまして。
他人様からみればほんのつまらない理由なのでしょうけど、
自分でも何故だか知らないくらい、そういうことにひかれるんです。
「塩川元財務大臣」、通称「塩じい」がいらっしゃるんだとか。
一昔前に政界で結構「有名」になった人なんですけども。
間近でみると、やはり「元財務大臣」というよりは「塩じい」という名が似合いそうな人で。
でもやっぱり、そういう場面になるとその能力を発揮するんだろうなぁ、と。
「偉い人」も、日常の中では「ただの人」、そんな言葉を思い出して和んでおりました。
「いい体験をした」と思いつつ帰宅、そしてやはりだらだらゴロゴロ。
明日は日曜日なんで試験を気にせずともいいのです。
いつも気にしてないじゃないかといわれたらそれまでですが、
やはり「明日は休みだ」と「明日も試験だ」では、心の中で何かが違うのです。
そしてそのためよりゆったりできるというかなんというか。
些細なことで「満足」した一日。
では。
THE HAPPENER.
2004年12月3日「事実は小説より奇」であるかと思った今日この頃。
「事実は小説より奇なり」という言葉があります。
一体、どのようなコトが「奇」だというのか、ということです。
「小説」というものは人の手によってかかれるものであり、
つまりはその書き手の「想像力」によって思いつける「奇」しか書かれていないのです。
その人の考えの及ぶ範疇の「奇」しか起こせないワケです。
しかし、現実間ではどうか。
現実において、咄嗟の判断などが絡み合って生まれる「奇」は、
一人の人間の想像力だけでは到底生み出せない「奇」だと思います。
その、「想像力だけでは生み出せない奇」が自然と起こってしまう、
そういった意味で「事実は小説より奇なり」といえるのかと。
ただ、世界が奇妙だとか物理法則を脱しているだとか、そういった「奇」とはまた違った「奇」であるのだと。
例えば「殺人鬼」を題材にした小説に出てくる「殺人鬼」の心情。
それも、いってみれば「作者が考えたもの」に過ぎなく、
現実の「殺人鬼」の心情とは全く異なるといってもいいでしょう。
そういった感じで、「小説上の奇」は「現実上の奇」に劣るというかなんというか。
では本文。
中間テスト一日目。テストを受けても始まったという実感がわきません(蹴)
一時限目:宗教:(普)
いつも通り時間いっぱいまで裏面(反省等を書くところ)に色々と書いてました。
時間が余ると何かと暇であるため、この教科は最後までそうやって暇をしのぐワケで(蹴)
二時限目:地理:(低)
ほぼ全問が四択だったため、期待できる点数は25点といったところです。
…前回それを下回ってましたけども(汗)
欠点候補科目なのになんだか呑気ですね自分。
三時限目:英II:()
前回変に高得点が出てしまったこの教科。
周囲に色々と思われると嫌なので、今回こそ自分に見合った点数がきて欲しい、と。
願わなくともこの手応えならそれくらいの点数でしょうけども。
自分は英語が苦手な生徒ですよ。
…いや、英語に限らずとも、苦手科目は多いほうです(汗)
変に余裕というか、危機感を感じないというか、何か変な感じがするんですけども。
そんなのはいつものことだといわれればそれでオシマイなんですけど。
意識が次の「修学旅行」に向いちゃってるんでしょうかね。
さて、帰りの電車にてある出来事に遭遇したのでその話をば。
或る駅で女生徒三人が乗ってきたんです。
後の行動を見ていて気付いたんですが、恐らく地下鉄に関して、又は電車に関してかなり疎い人達です。
この列車が或る駅に向かうのかどうかと話していて、その内に「車掌さんに訊こう」という話しになったらしく、
そのうちの一人が電車から出ました。
そのとき、既に扉が閉じるということを知らせる音が鳴っていたのにも関わらず。
そして勿論のこと、扉は閉まりました。
焦るも既に遅し。一人はそのままその駅に取り残されました。
そんな漫画のようなコトが現実でも起こるんだなぁ、と。
↑以前同じようなドジをふんだ奴が何を言う。
ところで、季節はずれの台風がまた沖縄を通過するようなんですけども。
まさか修学旅行に影響が出たりするんじゃないかなあ、と心配してみたり。
テストに関心を持てなかった一日。
では。
「事実は小説より奇なり」という言葉があります。
一体、どのようなコトが「奇」だというのか、ということです。
「小説」というものは人の手によってかかれるものであり、
つまりはその書き手の「想像力」によって思いつける「奇」しか書かれていないのです。
その人の考えの及ぶ範疇の「奇」しか起こせないワケです。
しかし、現実間ではどうか。
現実において、咄嗟の判断などが絡み合って生まれる「奇」は、
一人の人間の想像力だけでは到底生み出せない「奇」だと思います。
その、「想像力だけでは生み出せない奇」が自然と起こってしまう、
そういった意味で「事実は小説より奇なり」といえるのかと。
ただ、世界が奇妙だとか物理法則を脱しているだとか、そういった「奇」とはまた違った「奇」であるのだと。
例えば「殺人鬼」を題材にした小説に出てくる「殺人鬼」の心情。
それも、いってみれば「作者が考えたもの」に過ぎなく、
現実の「殺人鬼」の心情とは全く異なるといってもいいでしょう。
そういった感じで、「小説上の奇」は「現実上の奇」に劣るというかなんというか。
では本文。
中間テスト一日目。テストを受けても始まったという実感がわきません(蹴)
一時限目:宗教:(普)
いつも通り時間いっぱいまで裏面(反省等を書くところ)に色々と書いてました。
時間が余ると何かと暇であるため、この教科は最後までそうやって暇をしのぐワケで(蹴)
二時限目:地理:(低)
ほぼ全問が四択だったため、期待できる点数は25点といったところです。
…前回それを下回ってましたけども(汗)
欠点候補科目なのになんだか呑気ですね自分。
三時限目:英II:()
前回変に高得点が出てしまったこの教科。
周囲に色々と思われると嫌なので、今回こそ自分に見合った点数がきて欲しい、と。
願わなくともこの手応えならそれくらいの点数でしょうけども。
自分は英語が苦手な生徒ですよ。
…いや、英語に限らずとも、苦手科目は多いほうです(汗)
変に余裕というか、危機感を感じないというか、何か変な感じがするんですけども。
そんなのはいつものことだといわれればそれでオシマイなんですけど。
意識が次の「修学旅行」に向いちゃってるんでしょうかね。
さて、帰りの電車にてある出来事に遭遇したのでその話をば。
或る駅で女生徒三人が乗ってきたんです。
後の行動を見ていて気付いたんですが、恐らく地下鉄に関して、又は電車に関してかなり疎い人達です。
この列車が或る駅に向かうのかどうかと話していて、その内に「車掌さんに訊こう」という話しになったらしく、
そのうちの一人が電車から出ました。
そのとき、既に扉が閉じるということを知らせる音が鳴っていたのにも関わらず。
そして勿論のこと、扉は閉まりました。
焦るも既に遅し。一人はそのままその駅に取り残されました。
そんな漫画のようなコトが現実でも起こるんだなぁ、と。
↑以前同じようなドジをふんだ奴が何を言う。
ところで、季節はずれの台風がまた沖縄を通過するようなんですけども。
まさか修学旅行に影響が出たりするんじゃないかなあ、と心配してみたり。
テストに関心を持てなかった一日。
では。
THE SUBLIMATER.
2004年12月2日人は「予感」を働かせることで逆に動揺するかと思った今日この頃。
例えば、何だか危険な場所を歩いていると、びくびくする。
それは、「若しかしたら何か危険な目に遭うかも」と思うためです。
実際、何事にも遭わずにそこを通り抜けれたとしても。
そして逆に、予期せぬ「危険」に出くわしてしまった場合。
これは出遭ってから「恐怖」となるものであり、それが起こるまでは何も感じていないんです。
このように、結局のところ、「起こりうる恐怖」というものに対し、
それを意識することで起こる前から不安でいっぱいになったり、
または意識しなければ起こるまでは通常の状態でいられる、と。
ただ、若しそれが「起こるもの」だった場合、後者は前者よりその「差」が激しいため、結果として悪くなるかもしれません。
前者のようにビクビクし続けて精神疲労を起こすのも危険でしょうけども。
不要な心配は要らないし、また必要な心配を削ってもならない。
しかし自分達には、どれがどっちなのかがわからないワケです。
では本文。
今日は「久保田 修」氏による主にピアノによるコンサート「ぴあのふぇち 2004」へと赴く日です。
期末テスト前日で午前中授業だというのは、恐らく「必ず行け」という暗示でしょう。
↑「偶然」を都合よく解釈するな。
しかしこの、「ザ・フェニックスホール」という建物、自分は一度も見たことがありません。
「地図はあれども無事に着けるのか」という不安と、「いよいよだ」という興奮等、様々な感情を織り交ぜ、結局不安になりながら現地へと向かう。
…梅田というのはこんなにもややこしい土地だったのですか(汗)
知らないところへくると、どこもかしこもビルが並んでいるだけに見えて。
同じ大阪でも都会と隅っこの方ではこんなに違うのか、と。
しかし、やはり迷う人が多いのか地図がそこかしこにありまして。
地下と地上とを行ったり来たりしながら、何とか会場へと到着。
早速「チケットセンター」へチケットを買いに行く。
そうしてついたのは何だか単なる会社の一室のような場所。
しかし間違いなく「チケットセンター」とかいてあるし、入って当日券を買いたいという旨を伝える。
…どうやら入ってすぐのとこで開演三十分前から売り始めるようで(汗)
スゴスゴと入り口のある階まで降り、売り始めるのを待つ。
さて、どうも無駄なことばかりかき連ねている気がしてきたんで開演まで駒を進めます。
待つこと数十分。その間に「携帯電話の電源をお切り下さい」等の注意が何度となく流れる。
普通「コンサート」といえば切ってくるだろうと思いきや、結構それでプチプチ切る人が。
コンサートとかが初めてなのか、それともやはりギリギリまで入れとこうという精神なのか。
しかし前者かなぁ、と思いまして。その根拠が次の通り。
後で久保田氏の話にも出るんですが、ここに来てる人は大抵「某ゲーム」で氏を知った人なんです。
つまりは、言っちゃ悪いんですが「コンサート」というものに全く縁のなかった人もいるんじゃないか、と。
さて、余談はおいといて。全然話が進んでませんね。
会場が暗くなり、いよいよかと思うも数分間その状態で待つ。
こういうときって、時間がやたらと長く感じられるものです。
そして久保田氏らしき人物が入ってきて、礼だけして即座にピアノを弾き始める。
予想としては先ずトークかと思ってたんで、ちょっと違和感を感じました。
そして二曲を弾き終わり、初めて口を開く久保田氏。
次に演奏する二曲の説明を軽くし、また弾き始める。
そしてまたトーク及び曲解説。ここで一つ気になる発言。
「あと、ちょっと激しいゲームの曲を一つ」。
いよいよ某ゲームに収録されてるのが来るか、と身構えて。
一曲目が終わり、ライトアップが赤へ。そして始まる次の曲。
「five regrets」でした。意外といえば意外、しかしそれを聴くことでの感動がその意外性すら吹き飛ばして。
それまでも良い曲だったんですが、もうこれはいろいろな要素が混じって別格の良さがありまして。
「知っている」ということ、そしてそれが「好きな曲」であるということ、それが「生で聴ける」という興奮、
曲のイメージ色である赤でのライトアップ等により、この曲自体のもつ良さが数倍に跳ね上がったのではないかと。
「音楽」には「絵画」と違い、「即効性の感動」がないとはいうものの、
こういった意味では「即効性の感動」も有り得るなぁ、と。
最初の数秒でその「five regrets」という曲を思い出し、そこから色々な要素が混じって一瞬で「感動」へと昇華する。
「知っている」からこその感動ってのはこういうもんだ、と。
ところで、奏でられる曲もさることながら、やはり奏でる側の技もスゴイ。
自分の席からはばっちり手元が見えるワケで、それとあわせてより感動が増す、と。
そしてその後映像に合わせての即興曲を弾き、一旦休憩。
後半、久保田氏がいない。しかしゲストであるチェロ、バイオリン、二胡の奏者たちは演奏を始める。
一体何があるんだろうかと思って暫く演奏を聴いていると。
歌いながら久保田氏入場(笑)
まさか歌い手として参加するとは思いませんでした。意外過ぎです。
それからはそう変わったこともなく、ゲストとの競演が続く。
そして最終曲、「月の涙」。この曲に対しての演出がまたニクイ。
その前の曲の途中から、自分たちが見ている側の「壁」が上がっていってたんです。
どうやらその壁の外に窓があり、そこから夜景が見える、と。
タイトル通りの哀しげで比較的落ちついた曲で、最後にふさわしいかな、と。
弾き終わり、会場を去る久保田氏と、終わらぬ拍手。
その先はいわずともわかるように、久保田氏が戻ってきて「アンコール」曲の演奏を始める。
「本当は手が三本ないと弾けない曲なんですけど、無理やり二本で弾こうと思います。」
そのような久保田氏のコメントに、ふと「Vienna」か「carezza」ではないかと思って聞き耳をたてる。
しかし流れてきたのは「scherzo」、これもよく考えれば三声なんですね。
その勘違いを狙っていたのかどうかは知りようがありませんが。
この「scherzo」もお気に入りだったんで感動はひとしおで。
三声のところだけスピードが落ちるというのも印象的でした(笑)
ところで、実は「月の涙」と「scherzo」には一部で似たフレーズが使用されてるんですが、
まさか「月の涙」で伏線をはってたんでしょうか。
さて、アンコールの「scherzo」にまた酷く感動しながら帰宅しました。
「聴けた」というのは勿論嬉しかったんですけど、やはり同時に「終わった」ってことが少し寂しいなぁ、と。
イベントとかってのは大概そんなもんですけどもね。
いつか忘れることがあろうとも、今日感じたこの「感動」は本物だ、と。
…結局ここまで長くなりましたか(汗)
今更「雑記」にかけばよかったかと反省しております。
いつも以上に「かきたいことをかいただけ」の変なものになりました。スイマセン。
かきたくなることが多過ぎた一日。
では。
例えば、何だか危険な場所を歩いていると、びくびくする。
それは、「若しかしたら何か危険な目に遭うかも」と思うためです。
実際、何事にも遭わずにそこを通り抜けれたとしても。
そして逆に、予期せぬ「危険」に出くわしてしまった場合。
これは出遭ってから「恐怖」となるものであり、それが起こるまでは何も感じていないんです。
このように、結局のところ、「起こりうる恐怖」というものに対し、
それを意識することで起こる前から不安でいっぱいになったり、
または意識しなければ起こるまでは通常の状態でいられる、と。
ただ、若しそれが「起こるもの」だった場合、後者は前者よりその「差」が激しいため、結果として悪くなるかもしれません。
前者のようにビクビクし続けて精神疲労を起こすのも危険でしょうけども。
不要な心配は要らないし、また必要な心配を削ってもならない。
しかし自分達には、どれがどっちなのかがわからないワケです。
では本文。
今日は「久保田 修」氏による主にピアノによるコンサート「ぴあのふぇち 2004」へと赴く日です。
期末テスト前日で午前中授業だというのは、恐らく「必ず行け」という暗示でしょう。
↑「偶然」を都合よく解釈するな。
しかしこの、「ザ・フェニックスホール」という建物、自分は一度も見たことがありません。
「地図はあれども無事に着けるのか」という不安と、「いよいよだ」という興奮等、様々な感情を織り交ぜ、結局不安になりながら現地へと向かう。
…梅田というのはこんなにもややこしい土地だったのですか(汗)
知らないところへくると、どこもかしこもビルが並んでいるだけに見えて。
同じ大阪でも都会と隅っこの方ではこんなに違うのか、と。
しかし、やはり迷う人が多いのか地図がそこかしこにありまして。
地下と地上とを行ったり来たりしながら、何とか会場へと到着。
早速「チケットセンター」へチケットを買いに行く。
そうしてついたのは何だか単なる会社の一室のような場所。
しかし間違いなく「チケットセンター」とかいてあるし、入って当日券を買いたいという旨を伝える。
…どうやら入ってすぐのとこで開演三十分前から売り始めるようで(汗)
スゴスゴと入り口のある階まで降り、売り始めるのを待つ。
さて、どうも無駄なことばかりかき連ねている気がしてきたんで開演まで駒を進めます。
待つこと数十分。その間に「携帯電話の電源をお切り下さい」等の注意が何度となく流れる。
普通「コンサート」といえば切ってくるだろうと思いきや、結構それでプチプチ切る人が。
コンサートとかが初めてなのか、それともやはりギリギリまで入れとこうという精神なのか。
しかし前者かなぁ、と思いまして。その根拠が次の通り。
後で久保田氏の話にも出るんですが、ここに来てる人は大抵「某ゲーム」で氏を知った人なんです。
つまりは、言っちゃ悪いんですが「コンサート」というものに全く縁のなかった人もいるんじゃないか、と。
さて、余談はおいといて。全然話が進んでませんね。
会場が暗くなり、いよいよかと思うも数分間その状態で待つ。
こういうときって、時間がやたらと長く感じられるものです。
そして久保田氏らしき人物が入ってきて、礼だけして即座にピアノを弾き始める。
予想としては先ずトークかと思ってたんで、ちょっと違和感を感じました。
そして二曲を弾き終わり、初めて口を開く久保田氏。
次に演奏する二曲の説明を軽くし、また弾き始める。
そしてまたトーク及び曲解説。ここで一つ気になる発言。
「あと、ちょっと激しいゲームの曲を一つ」。
いよいよ某ゲームに収録されてるのが来るか、と身構えて。
一曲目が終わり、ライトアップが赤へ。そして始まる次の曲。
「five regrets」でした。意外といえば意外、しかしそれを聴くことでの感動がその意外性すら吹き飛ばして。
それまでも良い曲だったんですが、もうこれはいろいろな要素が混じって別格の良さがありまして。
「知っている」ということ、そしてそれが「好きな曲」であるということ、それが「生で聴ける」という興奮、
曲のイメージ色である赤でのライトアップ等により、この曲自体のもつ良さが数倍に跳ね上がったのではないかと。
「音楽」には「絵画」と違い、「即効性の感動」がないとはいうものの、
こういった意味では「即効性の感動」も有り得るなぁ、と。
最初の数秒でその「five regrets」という曲を思い出し、そこから色々な要素が混じって一瞬で「感動」へと昇華する。
「知っている」からこその感動ってのはこういうもんだ、と。
ところで、奏でられる曲もさることながら、やはり奏でる側の技もスゴイ。
自分の席からはばっちり手元が見えるワケで、それとあわせてより感動が増す、と。
そしてその後映像に合わせての即興曲を弾き、一旦休憩。
後半、久保田氏がいない。しかしゲストであるチェロ、バイオリン、二胡の奏者たちは演奏を始める。
一体何があるんだろうかと思って暫く演奏を聴いていると。
歌いながら久保田氏入場(笑)
まさか歌い手として参加するとは思いませんでした。意外過ぎです。
それからはそう変わったこともなく、ゲストとの競演が続く。
そして最終曲、「月の涙」。この曲に対しての演出がまたニクイ。
その前の曲の途中から、自分たちが見ている側の「壁」が上がっていってたんです。
どうやらその壁の外に窓があり、そこから夜景が見える、と。
タイトル通りの哀しげで比較的落ちついた曲で、最後にふさわしいかな、と。
弾き終わり、会場を去る久保田氏と、終わらぬ拍手。
その先はいわずともわかるように、久保田氏が戻ってきて「アンコール」曲の演奏を始める。
「本当は手が三本ないと弾けない曲なんですけど、無理やり二本で弾こうと思います。」
そのような久保田氏のコメントに、ふと「Vienna」か「carezza」ではないかと思って聞き耳をたてる。
しかし流れてきたのは「scherzo」、これもよく考えれば三声なんですね。
その勘違いを狙っていたのかどうかは知りようがありませんが。
この「scherzo」もお気に入りだったんで感動はひとしおで。
三声のところだけスピードが落ちるというのも印象的でした(笑)
ところで、実は「月の涙」と「scherzo」には一部で似たフレーズが使用されてるんですが、
まさか「月の涙」で伏線をはってたんでしょうか。
さて、アンコールの「scherzo」にまた酷く感動しながら帰宅しました。
「聴けた」というのは勿論嬉しかったんですけど、やはり同時に「終わった」ってことが少し寂しいなぁ、と。
イベントとかってのは大概そんなもんですけどもね。
いつか忘れることがあろうとも、今日感じたこの「感動」は本物だ、と。
…結局ここまで長くなりましたか(汗)
今更「雑記」にかけばよかったかと反省しております。
いつも以上に「かきたいことをかいただけ」の変なものになりました。スイマセン。
かきたくなることが多過ぎた一日。
では。
THE INJECTER.
2004年12月1日今月の目標を立ててみる今日この頃。
相変わらず「毎日日記をつける」ということに変わりはないんですけども。
今月、「毎日つける」というのが不可能な日があるワケで。
「修学旅行」により、ネットどころかパソコンもできない環境に数日間置かれるのです。
そういった、どうしてもかけない日をどうするかと。
以前ならばそういう日の分も後できちんと埋めていたものの、
最近はかかなかった日はそのままほうりっぱなしなので…
ただ、やはり「毎日日記をつける」ということを守りたいため、
そういう日のものは後で埋めるべきかと。
つまり、「最終的に毎日の日記をつけた状態にする」とでも。
今までそうしようとしてずっと失敗してきたんですけども…(汗)
今月は今年の最終月でもありますし、来年につなげられるよう頑張りたいところです。
では本文。
ついこの間十一月になったと思えばもう十二月です。
何というか、物事が終わりに近づくとその、「流れ」というものは「加速」するようで。
寧ろ、「終わり」を意識するため「流れ」に気を向けなくなってしまうというか。
恐らく十二月なんてあっという間に過ぎちゃうんでしょうね。
今年こそは元旦に年賀状が届くように出したいんですけども、果たしてどうなるか。
さて、十二月になったというだけの話題はおいといて。
予防接種を受けに行きました。
去年は受けた記憶がないんですが、今年は修学旅行もあるしやっておかないと、と。
母の話によると効果が出るまでに二週間から四週間かかるんだとか。
…それでは修学旅行に間に合わないんじゃ(汗)
修学旅行は丁度二週間後からです。
でも、免疫がそのひまでにつかなくとも、インフルエンザにかからなければいいワケです。
健康管理だけはきちんとしておかないといけないな、と。
↑テスト勉強もちゃんとしろ。
ところで、こういう注射って、「刺す」ときより「注入する」ときのほうが痛い気がするんですが。
献血のときの「吸われる」感覚とはまた違ったものがくるワケで。
「刺される」痛みはもうほぼ何も感じないというか、
「痛い」とは思うものの昔みたいに怖がらないというか。
…いや、もう高校生ですしそれが当たり前なんでしょうけども。
小学生の頃はこの「針を刺される」ということが怖くて怖くて。
何というか、ジェットコースターに乗ったときの、「落ちる直前」のような「タメ」がなかなか耐えられなくて。
今はもう、「いつでもこい」みたいな感じで、所謂「覚悟」が決まった状態で望むことができる、と。
色々と経験して、そういうことに対しても慣れてきたというか。
ある程度までの「痛み」というものを受け止めて対処できるようになったというか。
要は「我慢」できるものの程度が高くなっていっているとかそういうことです。
しかしいまだに「勉強する」ということに対してはなかなか「我慢」ができないようで。
テスト二日前だということを全く意識していなかった一日。
では。
相変わらず「毎日日記をつける」ということに変わりはないんですけども。
今月、「毎日つける」というのが不可能な日があるワケで。
「修学旅行」により、ネットどころかパソコンもできない環境に数日間置かれるのです。
そういった、どうしてもかけない日をどうするかと。
以前ならばそういう日の分も後できちんと埋めていたものの、
最近はかかなかった日はそのままほうりっぱなしなので…
ただ、やはり「毎日日記をつける」ということを守りたいため、
そういう日のものは後で埋めるべきかと。
つまり、「最終的に毎日の日記をつけた状態にする」とでも。
今までそうしようとしてずっと失敗してきたんですけども…(汗)
今月は今年の最終月でもありますし、来年につなげられるよう頑張りたいところです。
では本文。
ついこの間十一月になったと思えばもう十二月です。
何というか、物事が終わりに近づくとその、「流れ」というものは「加速」するようで。
寧ろ、「終わり」を意識するため「流れ」に気を向けなくなってしまうというか。
恐らく十二月なんてあっという間に過ぎちゃうんでしょうね。
今年こそは元旦に年賀状が届くように出したいんですけども、果たしてどうなるか。
さて、十二月になったというだけの話題はおいといて。
予防接種を受けに行きました。
去年は受けた記憶がないんですが、今年は修学旅行もあるしやっておかないと、と。
母の話によると効果が出るまでに二週間から四週間かかるんだとか。
…それでは修学旅行に間に合わないんじゃ(汗)
修学旅行は丁度二週間後からです。
でも、免疫がそのひまでにつかなくとも、インフルエンザにかからなければいいワケです。
健康管理だけはきちんとしておかないといけないな、と。
↑テスト勉強もちゃんとしろ。
ところで、こういう注射って、「刺す」ときより「注入する」ときのほうが痛い気がするんですが。
献血のときの「吸われる」感覚とはまた違ったものがくるワケで。
「刺される」痛みはもうほぼ何も感じないというか、
「痛い」とは思うものの昔みたいに怖がらないというか。
…いや、もう高校生ですしそれが当たり前なんでしょうけども。
小学生の頃はこの「針を刺される」ということが怖くて怖くて。
何というか、ジェットコースターに乗ったときの、「落ちる直前」のような「タメ」がなかなか耐えられなくて。
今はもう、「いつでもこい」みたいな感じで、所謂「覚悟」が決まった状態で望むことができる、と。
色々と経験して、そういうことに対しても慣れてきたというか。
ある程度までの「痛み」というものを受け止めて対処できるようになったというか。
要は「我慢」できるものの程度が高くなっていっているとかそういうことです。
しかしいまだに「勉強する」ということに対してはなかなか「我慢」ができないようで。
テスト二日前だということを全く意識していなかった一日。
では。
THE DIGESTER.
2004年11月30日今月の反省をしてみる今日この頃。
日記をつけてない日が半分以上ありました。
半分以上というか、ほぼ半分というか。
ふと気付いてみると最後に日記つけたのが丁度一週間前。
不意に寝てしまったやらつける気がないやらといったことが六日も続いてしまったワケで。
毎日、かくことはあったハズなんですけども。
そこで一つ自分に提案をしてみることにしました。
きちんとかけない日でも、せめて要所などをまとめたことをかいておく、と。
そうすることで見かけ上の「穴」がなくなり、連鎖していくこともないと。
しかし逆に、それだけで「かいた」という気になり、ちゃんとしたものにかき変えることをしないのではないかという心配も。
まあ、「前がき」が思いつかないせいでかかない日もありましたし、一度それを試してみようかと。
いや、それを試すような事態にならないことが第一ですけども。
では本文。
試験三日前なのに部活がありました。
「部活」というよりも寧ろ、今年も終わるんで最後に食べに行こうかと。
皆で「ざるそば」と「かやくご飯」をご馳走になりました。
ところで、自分が一番に食べ終わったってのは、自分が速いのか皆が遅いのかどっちなんでしょう。
少なくとも、家族で外食するときなどはこれくらいの速さで食べるのですが。
そしてその後、解散し、友人二人と駅のホームへ向かいまして。
改札を通り抜けたとき、駅員数人がホームのほうへと走っていきました。
気になったんでその駅員が走っていった方向へ行くと、何やら人だかりのようなものが。
人が倒れてました。でも意識はあるようで。
何かと指示を出そうとする人や、ただ見てるだけの人や、そのまま通り過ぎる人や。
自分は「ただ見てるだけ」というか、見て色々と騒ぐやつでしょう。
そして、効率が悪いというかなかなかはかどらない対処を見ているうちに、自分達が乗るべき電車がきまして。
しかし、コトの終わりまで見ていたいがため敢えて一本遅らせることに。
そのうちその男性は駅員にタンカに乗せられて運ばれていきました。
結局のところ、貧血か何かで倒れたものらしいです。
痙攣も何もなく、意識もそこそこありましたし大丈夫なんじゃないでしょうか。
それだけのことでもやはり「場所」によっては大事になるんだな、と。
単なる貧血だと「知らない」から、他のいろいろなことを心配して不安になるワケで。
実際、自分も「倒れてる」という「結果」しか見てないもんですから、
若しかしたら脳の疾患とか何かかなぁ、なんて思いましたし。
駅で人が倒れてるなんて初めて見ましたです、ハイ。
それからは何事もなかったかのように家に帰り、のんびりしてました。
珍しいものを見たと思った一日。
では。
日記をつけてない日が半分以上ありました。
半分以上というか、ほぼ半分というか。
ふと気付いてみると最後に日記つけたのが丁度一週間前。
不意に寝てしまったやらつける気がないやらといったことが六日も続いてしまったワケで。
毎日、かくことはあったハズなんですけども。
そこで一つ自分に提案をしてみることにしました。
きちんとかけない日でも、せめて要所などをまとめたことをかいておく、と。
そうすることで見かけ上の「穴」がなくなり、連鎖していくこともないと。
しかし逆に、それだけで「かいた」という気になり、ちゃんとしたものにかき変えることをしないのではないかという心配も。
まあ、「前がき」が思いつかないせいでかかない日もありましたし、一度それを試してみようかと。
いや、それを試すような事態にならないことが第一ですけども。
では本文。
試験三日前なのに部活がありました。
「部活」というよりも寧ろ、今年も終わるんで最後に食べに行こうかと。
皆で「ざるそば」と「かやくご飯」をご馳走になりました。
ところで、自分が一番に食べ終わったってのは、自分が速いのか皆が遅いのかどっちなんでしょう。
少なくとも、家族で外食するときなどはこれくらいの速さで食べるのですが。
そしてその後、解散し、友人二人と駅のホームへ向かいまして。
改札を通り抜けたとき、駅員数人がホームのほうへと走っていきました。
気になったんでその駅員が走っていった方向へ行くと、何やら人だかりのようなものが。
人が倒れてました。でも意識はあるようで。
何かと指示を出そうとする人や、ただ見てるだけの人や、そのまま通り過ぎる人や。
自分は「ただ見てるだけ」というか、見て色々と騒ぐやつでしょう。
そして、効率が悪いというかなかなかはかどらない対処を見ているうちに、自分達が乗るべき電車がきまして。
しかし、コトの終わりまで見ていたいがため敢えて一本遅らせることに。
そのうちその男性は駅員にタンカに乗せられて運ばれていきました。
結局のところ、貧血か何かで倒れたものらしいです。
痙攣も何もなく、意識もそこそこありましたし大丈夫なんじゃないでしょうか。
それだけのことでもやはり「場所」によっては大事になるんだな、と。
単なる貧血だと「知らない」から、他のいろいろなことを心配して不安になるワケで。
実際、自分も「倒れてる」という「結果」しか見てないもんですから、
若しかしたら脳の疾患とか何かかなぁ、なんて思いましたし。
駅で人が倒れてるなんて初めて見ましたです、ハイ。
それからは何事もなかったかのように家に帰り、のんびりしてました。
珍しいものを見たと思った一日。
では。